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『けん玉ハウス』03 | なぜ「けん玉ハウス」というのか

“次回はけん玉ハウスというニックネームの由来をお話しします。またよければご覧ください。”

前回、こんな風に書いてから2ヶ月経ってしまいました。
前回の記事を読書好きの彼に見せたのですが、ラインでの第一声「上手くまとまってた」という返信。正直プンスカしてしまいました(笑)。別にけなされてないけど、感想を求めたときのわたしは、「いいね」「よかった」とかそういう褒め言葉をまず求めていたのだろうと思います。予想と違う感想に拗ねてしまったのですね。。。。めんどくさい(笑)

その後、しつこく拗ねながらも詳しく感想を聞いていると、「キレイにまとまり過ぎてて雑誌っぽい印象があった」といっていて、なるほどなあと納得。確かにnoteでも女性指示の高いエッセイストのものを参考に読んでいたし、その感想は的を得てるなと拗ねる気持ちは小さくなりました。

これはB型あるあるなのかもしれませんが、相手には毒を吐くのに自分はガラスのハートなんですよね。意外と繊細(笑)

まあ、でも切り替えるのは早いほうなので、もっとよくするぞ!という気持ちに変換して、エッセイなどを中心に本を買ってしばらく読み漁ってました。読んですぐに上手くなるわけではないですね。また書き始めます。

《過去のエントリ》
01 | 古民家でシェアハウスをすることにした
02 | シェアする、「ほんとに住んでくれるの?」

さて、前回の予告通り「けん玉ハウス」の由来をお話します。

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名付け親は、新聞記者の友人T

新聞記者という職業は転勤が多く、Tもその一人でした。縁もゆかりもない徳島に数年前に赴任してきていて、バーのカウンターでアイルランド音楽の話で仲良くなりました。Tは、ザ・新聞記者という感じで、初対面は胡散臭いなあと思っていたけど、徳島でアイルランド音楽の話がまさかバーで隣り合わせになった人とできるとは思わなかったのでうれしかった記憶があります。なにより音楽、政治、文学などの知識が豊富で話がおもしろかい人でした。話しているうちにお互いに楽器ができるということがわかり、ギターとフィドル(バイオリンが民族音楽をするときの別名)で定番のダニーボーイをしてみようということに。バーのマスターも練習場所としてそこを提供してくれて、数週間に1回のペースで練習するようになりました。

練習しているときTが
「いやあ、阿波踊りの時期ってこんなにホテルとれないんやな、困ったわあ」
聞くと前の赴任先の横浜から友人たちが阿波踊りを観に訪ねてくる予定だったけど宿がないらしい。
阿波踊りの時期のホテルや飛行機の予約の取りづらさは県内の人なら周知の事実ですが、県外出身のTには予想外だったようです。

阿波踊り好きのわたしとしてはここはなんとかしてあげたいという気持ちで
「うちの空いてる家、使いますか?」と切り出しました。
その時、けん玉ハウスには誰も住んでいなかった時です。
Tはびっくりした様子で「えっ?そんな家あるの?」と。
たしかに普通は驚くだろうなあと思う。24歳(当時)女子が、空き家あるので使いますか?なんてすっというとは思わない。想像どうりの反応をいただいたので続け
「あります。今は誰も住んでませんが、時々遠方に住む親戚が泊まったりしているので泊まる分には問題ないかと思います。古い家ですけど、一応掃除はしていますし一軒家なので部屋には困りません」
そんな流れでTの友人たちが横浜より泊まりに来ることになりました。


〜泊まりにくる数日前〜
「何時頃チェックインしますか?」
わたしはホテルマン気取りに連絡。
「阿波踊りみて、それから飲みに行くと思うから24時は過ぎると思う」
「わかりました、一応住所送っておくんですが、googleマップでわかりにくいので、家の電気つけて、窓にけん玉を置いておくので目印にしてください!」
夜の家の外観とけん玉のシルエットが見える窓の写真を送りました。(トップと後の写真です)この時、Tはさらっと「了解」という感じだったのですが、この写真を見て「徳島のどこに行かされるんだ」と思ったらしい。

あまり特徴のない家だし表札もつけてないので、マップを送ったとしても間違えてとなりのおばあちゃん家に入ってしまうかもしれない。なにか目印が必要でした。あたりは高齢者が多く住む地域なので深夜になると真っ暗。電気を全開につけて、“けん玉が窓から見えている”というのはとてもわかりやすいと考えました。

なぜ目印をけん玉にしたかというと、「ただそこにけん玉があったから」。このわかりやすいシルエット、ナイスだと思います、ははは。

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Tの友人たちが泊まりに来た次の朝、挨拶にいったらTもいて興奮気味でした。
「知らない地域だしゲストをなんとか送らなければと思っていたけど、タクシーの運転手も詳しくないし、雨も降るし、不安になりながら歩いてたらこのけん玉を見つけて、おおおーーー!ってなったわ。新聞記者の友人なんて一眼レフ構えてさ(笑)」

それからけん玉の件でTとはより仲良くなった気がします。Tはこの家を「けん玉亭」と名付けて、まわりの人に話してくれました。


母も「けん玉亭」というネーミングを気に入って使っていましたが、わたしはなんか料亭みたいだなと思い、住むと決めたときからは「けん玉ハウス」としています。

時々歌を歌う母がこの家をわたしに譲るとき、『けん玉亭』という歌を作りました。その歌の3番の歌い出しはこう
「けん玉亭がハウスに 変わりゆく〜♫」
母の友人が作曲をしてくれてなかなかよい歌に仕上がってます。
コロナで歌う機会がなくなった母はけん玉亭で少人数のラストライブを開こうと言い出しました。わたしもあちゃん(同居人)も演奏することを誘われ、1曲だけならとOK。

わたし(フィドル)とあちゃん(ギター)がまず1曲演奏。
その後、母バンドが演奏。MCで母がその家に対する思い出を語り、MC後に歌う「けん玉亭」はあまりにもわたしの心に響いて泣けました。自分の知らないこの家の思い出がそこにはありました。この家に対してちゃんと接していたかな...と考えると同時に今、この家にこうして家族や仲間が集って音楽を響かせ感動していることに祖父祖母の偉大さを感じました。
参加していた母の姉は「じいちゃんばあちゃん、これで成仏したわあ」と。降りてきとったんやな」とみんな笑いましが、たしかにどこかそんな感じを覚える時でした。


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