他人と 自分と

2月、うちの会社では年に1度の昇給昇格がこの時期にある。

仲間が評価されるのは嬉しいし、頑張っている人が評価されるのは当然だし、お礼の挨拶周りをするみんなの笑顔を見ると自分まで幸せな気持ちになる。

でもどこか解せない気持ちになった。昇給昇格した全員に同じ気持ちになれない自分がいた。

なぜこの人が?
ごく数人に対して、そんな感情が自分の中にあった。

会社は1000人を超える大きな組織だし、事業部内だけでも700人近くいる。この大きな組織においては、全員が全員、誰から見ても公正公平な評価なんてできないことは理解できている。

妬み、拒みなんてカッコ悪いのは自分でもよく分かっているし、当然表には出さない。

でも素直に悔しかった。

昇給も昇格も最低でも2年後、といったようなガイドラインのような慣習はあるが、当然異例も存在する。自分が悔しい思った対象はまさにこの異例昇給したメンバーに向けた感情であった。

もちろん結果を出しているから評価される。誰に聞いても頑張っている。自分自信もその頑張りは分かっている。ただその悔しさを覚えたメンバーは自分の後輩であった。悔しい理由はそれだけだ。初めて後輩に追い抜かれた。

実は自分自信が社内では異例のスピードで今のポジションまで登ってきた。同期も先輩もごぼう抜きにしてきた。

初めて同期以下のメンバーに追い抜かれたのだ。

悔しさと同時に、他人との比較でしか自分を図れていない自分自信にショックを受けた。

少し前に転職を本気で考えた時、改めて自分を見つめ直した。その時思ったことは
「自分は評価されすぎている」
「給与と役職に見合ったスキルがない」
そんな謙遜した考えだった。

でも蓋を開けてみれば結局、自分も他人より評価されたい、そう思ってしまった。

自分の器の小ささと弱さを剥き出しにされた。

自分の中に自分のモノサシを持っていないのだ。そう気付いた。
自分のやりたいこと、目標、なりたい姿、それがないから他人と比較することでしか自分を図れない。虚しいというか、悲しいというか、なんとも表現できない気持ちになった。

他人との比較はキリがない。あらゆるジャンルで自分が一番にはなれない。そんな才能がないことも自分でよく分かっている。

できること
やりたいこと
やるべきこと

自分しか分からないはずのことが、自分で分からないのだ。

でもゆっくり考えてみると、きっとそれは分からないのではなく、見えていないだけじゃないかと思った。

できないこと
やりたくないこと
やらなくていいこと

きっとこれを整理していくと、見えてくる気がした。

できないことはできるように
やりたくないことも我慢して
やらなくていいことなんかない

逃げ癖のあった自分を戒めるように、いつからか何事も根性論でこなすことが正義だと信じてやってきた。
もちろんそれでここまで評価されたのは事実だし、スキルも経験も積むことができた。
でもそんな自分にきっと限界が来てるのだと思う。

限界なんて自分で決めるもの
限界は超えられる

これは間違った考えでは無いけど、使いどころを間違えていたのかもしれない。

心のモヤモヤは時間と共に消えていく。でも消える前にしっかり向き合うことで新たな気付きがある。この積み重ねこそが成長だと信じている。


そしてなぜかこれを書いていてふと、小学5年の時の先生の書いた言葉と、また同じく隣のクラスの先生の言葉を思い出した。

「みんな違ってみんな良い」

「美しいものは美しいと言おう」

20年以上前の先生達の言葉が、弱りかけてくれた自分を支えてくれた気がした。

誰かのためになれる、自分もそんな存在になりたい。それだけは確信できた。




いいなと思ったら応援しよう!