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業績を尊重する誤り

 もう一つ申し上げたいことは、現在、文明国で「偉い」ということに根本的に誤りがあるのではないかということです。(中略)
 私は、加藤唐九郎とか、荒川豊蔵とかいった人をほめたたえるところに誤りがあると思うのです。食べ物を作る人は、業績というものを残さない。雪舟なら雪舟の絵があり、ダビンチならダビンチの絵、彫刻などがあります。文学者だと本が残る。私達なら研究業績が残る。そういう業績を尊重するところに誤謬があるといえます。
 (中略)農業や漁業を分担している人によって命は支えられています、私達が命あるかぎり、一日もかかすことなくお世話になっているその人たちは業績を残さない。記念碑も残さない。食べられて糞尿になってしまう私達の働くエネルギーを供給して、何にも名のあるものを残さないのです。
 そういう人たちに対する感謝の念というのは、いわゆる業績を残す人をほめたたえるということとは一致しない部分があるのです。ああいうものを、あまり偉いと思わない精神をつちかわないと、食物に対して真に感謝する気持ちはおきないんだということを申し上げたいのです。
 (以上の分は、一九八六年二月の”私たちの生存は守られるか”のシンポジウムでの梅津氏の発言を事務局でまとめたものです)

『文明を問い直す ー 一市民の立場より』梅津濟美

 こういう発言をされる方はどれほどいらっしゃる(た)のでしょうか。よくぞ言ってくださいました、と思ってしまって、長々と引用させていただきました。
 わたしは農業にも漁業にも従事していませんが、言われてみると感謝の念が足りないように思います。
 それにしても「偉い」ということに対してこれほど明快に発言されていることに敬服いたします。
 わたしはまったく同感でございますが、もしも許されるのであれば、仮に許されなくとも、ひとこと小さく発言したいのは、「バカ」というものももう少しお認めいただけないものでしょうかということです。
 わたしは「偉い」の反対は「バカ」ではないかと思っています。「平凡」という方もおられますが、わたしとしては「偉い」ー「平凡」ー「バカ」という天秤がって、「平凡」は支柱のあたりで、両極に「偉い」と「バカ」があるのかなと思っています。
 「アホ」は愛嬌があってある程度好感を持たれておりますが、「バカ」は徹底的に排除の方向にあるかと思います。確かに実害のある「バカ」は批判されてしかるべきと思いますが、あまり害のない「バカ」もいるかと思います。そういう「バカ」があってこそ、「偉い」ということも存在するということはありませんでしょうか? 「偉い」と「平凡」ばかりだと天秤が釣り合わなくなりませんでしょうか?
この際ですので試しに「偉い」を少々格下げし、「バカ」を少し格上げしてみませんか?
ゆくゆくは「バカ」代表という名目でその年の大バカ者が園遊会などにお招きいただけるようになると、日本はもっと住みやすくなったりしませんでしょうか。
なんなら警備員に化けてひっそり立ってましょうか。。
制服の貸与だけお願いします。
誘導棒は大丈夫です! 

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