愚の主張の必要
そう思っておりました。
自然科学ではこれを絶対値であり、これのみが真理であると。
しかしながら筆者は、地球は動かない、と言われます。
それは人間の目線で見れば、地球は平(たいら)であって、地震でもなければ地球は動かないと。
実はわたしもそういうように思っておりました。
人間というものは小さく、儚い存在で、地球や宇宙などのスケールから見れば塵であると。
それゆえに、人生にはたいした意味などないと。
これは一方では悩み多き人の心を軽くしてくれることもあるでしょうが、一方でなんともわたしたちは無力で、さみしいものだと思わされるものでもあります。
どうなんでしょうか?
筆者は人間そのものの絶対値がどれだけか、ということを考えなくてはならないといい、「これが人間だ、という動かない答えを出しているものが実はある。文学である。」と。
「文学は人間を書くのに、あるとおりのものに書くものだ。」として、では人間がどのように書かれているかと言えば、
「しかし人間はやっぱり本当に愚かなものなのだ。恋などというもの、男女の情などというものは、どう考えてみても賢明などというものではない。それは実はいのちの力なのだが、いのちの力とは愚かなものではないか。何か盲目のものだ。そしてそれは進歩しないものでもある。こういういのちの力に人間はいかにつきあげられて生きているものであるか。そのことを飽きずに書いてきたのが文学であって、だから文学は総じて人間の愚を語っているものであり、文学を読むことは人間の愚を知る行為であるともいえる。文学は偉人というものをなくする力を持ち、その愚なる人間が何を最も欲するかということ、人間の愚の願いというものを語っているものだ。」
最後に、
きのう食べたラーメンの愚もチャーシューともやしと半熟たまごだ!