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愚の主張の必要

 地球は人間の感覚にとっては地の球ではなく、地震でもなければ絶対に動かないものであるが、それは誤りで、地球は赤道上の点でいって毎秒四百六十メートルの速さで自転し、地球の中心でいって毎秒約三十キロメートルの速さで公転している半径約六千三百七十一キロメートルの球である、と自然科学は教える。

『文明を問い直す ー 一市民の立場より』梅津濟美

 そう思っておりました。
 自然科学ではこれを絶対値であり、これのみが真理であると。
 しかしながら筆者は、地球は動かない、と言われます。
それは人間の目線で見れば、地球は平(たいら)であって、地震でもなければ地球は動かないと。

地球の絶対値のみを一方的に真とし、地球と人間との関係値を偽とするのは、明らかに誤りである。それはどっかに、地球に対する我々の小ささをとがめるもの、我々がこの地上に生の場を持っていることを軽く見るもの、無人の地球が虚空を回るようになったとしても意に介さないといったもの、何かそういったものを含んでいるようにも思われる。

 実はわたしもそういうように思っておりました。
人間というものは小さく、儚い存在で、地球や宇宙などのスケールから見れば塵であると。
それゆえに、人生にはたいした意味などないと。
 これは一方では悩み多き人の心を軽くしてくれることもあるでしょうが、一方でなんともわたしたちは無力で、さみしいものだと思わされるものでもあります。
 どうなんでしょうか?
 筆者は人間そのものの絶対値がどれだけか、ということを考えなくてはならないといい、「これが人間だ、という動かない答えを出しているものが実はある。文学である。」と。
 「文学は人間を書くのに、あるとおりのものに書くものだ。」として、では人間がどのように書かれているかと言えば、
 「しかし人間はやっぱり本当に愚かなものなのだ。恋などというもの、男女の情などというものは、どう考えてみても賢明などというものではない。それは実はいのちの力なのだが、いのちの力とは愚かなものではないか。何か盲目のものだ。そしてそれは進歩しないものでもある。こういういのちの力に人間はいかにつきあげられて生きているものであるか。そのことを飽きずに書いてきたのが文学であって、だから文学は総じて人間の愚を語っているものであり、文学を読むことは人間の愚を知る行為であるともいえる。文学は偉人というものをなくする力を持ち、その愚なる人間が何を最も欲するかということ、人間の愚の願いというものを語っているものだ。」
 最後に、

「科学時代」になったのだ、人間よ変われという人が多い。しかし我々は今こそ、その「科学時代」になったからこそ、人間の愚というものを胸を張って主張すべきではないか。どう言われようが、我々はそんなに変われないのだ、(中略)
この愚かな人間のためにこそ科学はあるので、科学のために人間があるのでは断じてないのだ、と。

 きのう食べたラーメンの愚もチャーシューともやしと半熟たまごだ!

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