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いったい何のために何をしている?

  便利さによって節約された時間を、人はどのように使っているのだろうか。おそらく、することのない時間の空疎、すなわち自分自身の中身の空疎に耐えられず、人はさらにビジネスへと走っているのではなかろうか。そして、忙しい忙しいと自分に言いわけしつつ、さらなる便利さを求めているのではなかろうか。すると、人は、いったい何のために何をしていることになるのか、これは見事な本末顚倒|《ほんまつてんとう》である。

ちくまQブックス『言葉を生きる』池田晶子

 はい、わたしです。
いったい何のために何をしているのかわかっていません。
 大変便利になりました。
 仕事は忙しくなりました。
 労働時間は伸びました。
 給料は減りました。
 お腹は減りません。

 外界の拡張、外界への欲望は、いいかげん、もういいのでなかろうか。人類はそろそろそのことの無意味と、内界の意味に、気づいていいのでなかろうか。
 アフリカの小国の不便な暮らしと私は言ったが、じつを言うと、私はそういう暮らしを不便とはちっとも思わないのだ。薪割り、水汲み、飯炊きで終わる一日、しかし、精神の自由は完全に確保されているからである。

 アフリカの小国の暮らしは不便そうですが、私に必要そうなのは、
・洗濯
・飯炊き
・皿洗い
・掃除
・散歩
・本
・寝る
くらいかと思います。

 有名な逸話がある。プラトンの本を与えられて、初めて読んだ農夫、「こんなのワシがいつも考えてるのと同じだ」。

 いまでもプラトンが読まれることを考えると、現代人はプラトン時代の農夫未満ですね。

 なければないで全然かまわないもの、それが便利さの定義だ。
(中略)
 必要でもないのに出現したものを、人は「便利」と思うわけだが、その便利さが生活と生存に必要不可欠と思うに至る顚倒がなぜ起こるかというと、答えは至極単純である。何のために生きているのかを、考えずに生きているからである。

 あ~、そうだったのですね。なんとなく考えたりしたことはあったような気もしますが、考えていると「You've got mail ♪」に邪魔されちゃってました。その声の方も先日お亡くなりになったそうで。
 いまはあのちっちゃな板電話に邪魔される日々を送っておりますが、もうほれ、死ぬぞ~、となったときに、はて、このオレの人生はこの板っ切れをの覗き込んでただけで終わっちまったなぁ、ってことになりそうです。
 おっと、また板っ切れが呼んでるぞ。お前とオレとどっちが存在なんだ?

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