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寺田の「人生ってなんだ?」その6:キャラは幻想。人はいつからでも違う自分になれる。

どーも!自己啓発系ペテン師の寺田です(笑)

↑これもひとつのキャラ設定です。今回はこういう設定に縛られないで生きるための方法を語ります。

ともかく、第6回!いい感じのペースですよ(どこに向かって言ってるんだ)
それではいってみよう!

現在、インターネット化が進んだことで、誰もが気軽にSNSで発言できるようになりました。

僕はそれと同時に、人々がネットである特定のキャラクターを演じるようになってきている気がするのです。そして、そのキャラにがんじがらめになり、挙げ句の果てに精神を病み始める人間が出てくる始末。

人は、SNSで、俺はスゴイぞ!と強がったセルフプロモーションをしてみたり、必要以上に自分を可愛く見せたりする。

それ自体は「演劇をしている役者」と同じことで、良いも悪いもありませんが、問題なのは、そこで作ってしまった虚飾の自己像(〝虚飾だから〟悪いわけじゃない。ある意味すべては虚飾なのだから)に、リアルの自分ががんじがらめになってしまうことです。

それは、役者が役にのめり込み過ぎ、それが単なる役であることを忘れてしまうようなものです。

キャラは不変の設定ですが、生身の人間は日々変わっていきます。

だからオラオラヤンキーのキャラをやっていた人が、ある日のある体験を機に境に心変わりして、真面目に勉強する人間になるなんてこともあり得るわけです。もちろん、その逆パターン=「真面目くんからオラオラヤンキーへ」もあり得ます。

こういうことを考えた時、SNSというのは極めて人間をキャラクター=虚飾の自己像にがんじがらめにさせやすいシステムであると思えてきます。

SNSで、あるキャラを演じることで、いいねがもらえる。それは必ずしも本当の自分とは違い、ズレがある(たいがい本当の自分はもっと弱かったり、ブサイクだったりするわけですが)のだけれど、

いつしか捏造したキャラと本当の自分の境界が曖昧になり、そして本当の自分の方はもはや黒歴史や、失われた過去の抜け殻のようにして扱ってしまう。

いわばこれが破滅の始まりと言っても良いでしょう。

(養老孟司先生の傑作新書『バカの壁』にも似たようなことが書いてありました。情報は不変である。しかし人間は変わっていく、と。まったくその通りだと思います。僕がいうところの「虚飾の自己像」とは、つまりバカの壁とニアリーイコールなのです。)

ラディカルに詰めれば、人間が自分に抱く自己像というのは、けっきょくはすべて幻想です。何も驚くことは無い。人間のイメージとはつまり幻想のことなのだから、トートロジー(同語反復)です。

だから「自分はこういう人間だ」と、特定の自己像を設定してしまった瞬間、必ず本当の自分とのあいだにズレが生じる。

人間はやれ自分はヤンキーだ、真面目だ、良い主婦だ、可愛い彼女だ…などなど自己像に落ち着こうと必死になります(多くはそれが自分がなりたい理想像であったりするわけですから必然ですが)が、ふとた時、本当自分は実はそれとはちょっと違うんじゃないかとか、そういう風に感じ始めたり、それすら感じなくなって、ある種の宗教にすがるように、キャラに乗っ取られていってしまったりする。

そしてそのズレの正体は、言語というものの限界でもあるわけです。

言語というものはどこまで修飾語をつけても実在とは乖離します。この手の話はソシュールの『一般言語学講義』に詳しく書かれていますが、

たとえば目の前にリンゴがあります。それはどういうリンゴでしょうか?修飾して、「机の上にある、赤いリンゴ」としましょう。しかしそう言ったところで、それは目の前にあるリンゴと完全一致するか?するわけありません。

赤って、どんな赤なの?質量は?付着している小さい汚れは?…と、ディティールを完全に追うことは出来ない。たとえ時間をかけて追えたとしても、不合理な作業です。そして、我々が悠長にそんなことを観察しているうちにリンゴは腐り、やがて土に返るでしょう。(なにせ果物は不変ではないのですから)

人間についても同じことが言えます。人間は変わっていく。『平家物語』の冒頭には〝祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり〟とありますが、人間が変わっていくから、同じ鐘の音が幾通りにも聞こえてくるわけです。

同じ映画でも、子供に観た時と、大人になって観た時では、だいぶ印象が変わって見えることがあります。それは間違っても映画のフィルムが変わったわけではなく、自分自身が変化したのです。

キャラというのは祇園精舎の鐘に過ぎません。毎日毎日同じ音を響かせます。だからと言って、我々が、同じ音を鳴らすことにこだわる必要はありません。

つづく













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