まる裏現代俳句時評#2 九月号ふりかえり&取り合わせ雑感

9月17日23時 追記 (9月18日22時40分 修正版公開)

 本記事の内容により、読者の精神及び身体に支障をきたした等の不利益が生じました。
 当記事において傷を負った関係各位に深くお詫びし、再発防止に努めます。
 なお、当該箇所につきましては、然るべき形式にて削除しております。

はじめに

 不定期更新のまる裏です。今回もよろしくお願いいたします。この記事のタイトルの「まる裏」、当然「まる裏俳句甲子園」からいただいているものなのですが、全然ダマでやってます。なので、もしある日突然タイトルが変わったらそれはまる裏側から圧力があったと思ってください(冗談です)
 俳句時評ももう三回が終わり、原稿入稿レベルではもう五回分書き上がっています。担当分は全六回なので、新規で書ける内容はあと一回のみとなっています。早いものです。社会人一年目でにっちもさっちもいかない中、俳句時評を毎月上げ続けるのはとてもしんどかったですが、終わりが見えてきてあともう少し頑張れそうです。
 そんな俳句時評ですが、いろいろなところから「面白い」というお褒めの言葉をいただいております。一方、なかなか「つまらない」「内容が至らない」などの改善ポイントはお聞きできていない状況です。もしそういう意見ありましたらぜひ郵送なりリプなりDMなりで届けてください(もちろん、面白かったという感想もまだまだお待ちしております)。この連載を通じて自分自身学びたいと思っていますのでよろしくお願いいたします。本当に、「面白かった」等等の感想を一人に言われるだけで、次の一ヶ月頑張れるんです。
 では、今号のまる裏ラジオをお届けしましょう。

9月号「文法持論」ふりかえり

【事情により削除】

取り合わせ雑感

 さて、ふりかえりはここまでとして、最近考えている「取り合わせ」(または「切れ」)のことをダラダラと書いてみます。本当はしっかり調べるなり数ページしっかり書けばそれなりの小論になるとは思うのですが、そんな時間もないし多くの若い人に読んでもらいたいという意図があり、このNoteのコンテンツとして発表してしまいます。
 僕が取り合わせに厳しいということは何人かの人はご存知と思いますが、その理由までご存知の人はいないかもしれません(喋ってないからね)。「セオリー」に則った「季語の斡旋」による取り合わせは当然絶滅して欲しいわけですが、それ以前に「切れ」を伴う「取り合わせ」が最近気持ち悪いと思っています。例えば
  悉く全集にあり衣被 田中裕明
 をみた時に、この「衣被」と置くだけで「衣被がそこにあることにしましょう」というお約束になっていることに、非常に違和感があります。いやいや、あなたさっきまで全集の話をしていたのに、急にボソッと「衣被」とだけ言って、それが映像の言葉になるなんて本当に思えますか? これ、俳句の世界のお約束で、名詞をボンと提示すればそれ即ち映像の言葉として読者が「取り合わせてくれる」というお約束に寄りかかっていませんか? と、ツッコミを入れたくなります。冷静に読んで、この叙述で衣被の映像として取り合わせが成立することは気持ち悪いと思っています。同じ裕明だと、
  骨と骨つなぐ金属梅雨茸
にも同じ気持ち悪さを覚えます。句の中では「梅雨茸」と言われているのみ。ボソッと。それに対して何が悲しくて梅雨茸の映像を想起しなくてはならないのか。ここのお約束がしっくりこないわけです。他方、
  空へゆく階段のなし稲の花
  雪舟は多くのこらず秋蛍
  穴惑ばらの刺繡を身につけて
  浮寝鳥会社の車かへしけり

は、映像の言葉として季語が使われており、違和感はありません。ここまで整理して一つの仮説として、僕の違和感の原因は形そのものに加え、「カメラが二台あること」なのかもしれないと思えてきました。全集を撮るカメラと衣被を撮るカメラ。金属を撮るカメラと梅雨茸を撮るカメラ。いずれも二台必要です。他方、<稲の花>はフィールドとしての稲の花。<雪舟>は作者の思いなのでカメラ不要。<ばらの刺繡><会社の車>もそれぞれ行為なのでカメラ不要です。うーん、もう少しクリティカルな(というか高次元な/抽象度の高い)整理がある気もしますが、一旦はこう説明を試みましょうか。繰り返しになりますが、キモさの本質はカメラの台数ではなく、「その季語を置けばその季語が映像として存在しますよ、というお約束」というところにあります。そして、では「映像の言葉ではない季語」は何か、ということを考えると、二台目のカメラで撮られた季語、ということになるかと思います。
  お約束で最近キモいと思っているものがもう一つあって、それは上五の「や」切れです。これも先ほどの感覚と同じで、「や」と言っただけで「そこにあることにしましょう」というルールが気持ち悪い、ということになります。【事情により削除】だいたい「や」ってなんやねん、というところも含めて、冷静になると意味がわかりません。同じ切れ字でも、「かな」「けり」はそれぞれ詠嘆の機能を持って働いていると思いますが、「や」に関しては俳句の中の「ローカルルール」として、「取り合わせですよ、ということを表す記号」のように扱われている節があります。ここかなり違和感があるのですが伝わっていますかね?
 違和感のない「や」としては、面積の広い季語に使われているということが言えるでしょうか。
  夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉
  古池や蛙飛びこむ水の音 〃
  啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 秋櫻子
 
これらに違和感はありません。一句目は「夏草」のフィールド(グラスフィールド)を表す「や」ですし、二句目はこの句の景色を覆う「古池フィールド」を表す「や」です。三句目は句全体を包む音の啄木鳥ですね。
 ここまで書いて思ったのは、「や」が詠嘆として用いられている句には違和感がないが、そうでなく「切れ字」「お約束の記号」として使われている句には強く違和感があるということです。上記の「面積の広い『や』」に加え、
  白藤や揺りやみしかばうすみどり 不器男
等の「一物のや」もそうですが、結局これらは詠嘆として機能しており、一句の中心になっています。他方、多くの素人が作る「取り合わせの『や』」は、切れの位置の明確化のための記号としての機能しか持っておらず、たいてい言いたいことは「や」より下の中七下五にあります。したがって、詠嘆の機能を持っていないのです。他に、秋の歳時記の「生活」「動物」「植物」などの「小さい季語」の項をあたって、違和感のある「上五の『や』」を探してみましたが、さすがに歳時記レベルには少ないらしく、
  サフランや映画はきのう人を殺め 宇多喜代子
くらいでした。しかしこの句は、先ほどの「フィールド理論」でいくと、眼前を覆う巨大なサフランが夢想できます。つまり、「や」の詠嘆起点で超越的な映像を喚起するのです。その意味では、むしろ「や」に成功している句と思えます。
 なかなか「悪い例」が見当たらなくて困っているので、身近な人でこの手の「記号のや」を使っていた人として思いあたった鈴木総史の作品をみてみます。
  夏服や海は楽譜のやうに荒れ
  蟷螂やかがめば雨の音うつくし

 こういう「や」、やっぱり違和感あるなあと思います。(総史さん、悪い例で、しかも古い句を取り上げてしまいすみません。。。)

短歌の人と喋ったこと

 さて、ここまで取り合わせのことを書いてきた。ふたつあって、切れて独立している名詞の取り合わせに対する違和感と、「記号の『や』」。これらに共通するのは、ゼロベースで考えれば自明ではない「お約束」がまかり通っている、という事実です。これはやっぱり僕は無条件には使えない取り合わせです(現に、句帳を見返すと過去一ヶ月は上五の「や」が出てきませんでした。それ以前は見ていませんが)。
 さて、最近短歌の人と俳句の人とで合同の歌会をしたのですが、その中で岩田奎が「短歌は羨ましい」ということを言っていました。世間からの注目度の高さで言うと、俳句は短歌に大きく水をあけられているという点です。それにはいくつもの理由があるけれど、その一つに「俳句を読む」ための共通コードが存在し、それを知らない世間の人間は俳句の読み方がわからない、ということがあります。ただでさえそれは大きな問題であるのに、加えて俳句界の人間がガラパゴスなお約束でもって「取り合わせ」をしているのだとすると、もうこれは救いようがないと言わざるを得ません。その表現の「何がいいの?」と自分や他人に問い続けることが求められているように思います。

【事情により削除】

 【事情により削除】

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