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noteピックアップ2021.3.15-3.21

8刊目となりました。過去のものは最後にマガジンへのリンクを掲載しています。noteはマガジン毎にフォローも可能なので、もし興味あればフォローよろしくお願いします。

教育に関わろうとするなら”過去の自分の穴埋め”から脱却した方がいいという話(まつくらゆき(ax-factory))

キャリア教育の領域で教育プログラム開発・教材開発と「しくみ作り」をされている(株)ax-factoryのまつくらゆきさんの記事です。

学校って、ほとんどの人が体験してきた共通の体験だからこそ、誰もが学校や教育について語ることができる。教育に興味がある、と言っても、自分の体験してきた角度・側面でしか見えていないことに、なかなか気づけないんです。

この表現、とても共感できます。私自身も「指導する」立場になることが多いのですが、例えばラグビーをやってきたからと言ってそのレベルやポジション、環境によって全然違う。でも、なんとなく「ラグビーをやってきた」という一文が妙な連帯を生むこともあります。もちろん共通する要素などは沢山あるし、いわゆる「ラグビー精神」というものはそこにあると思います。でも、それはとても狭い範囲での合意や、上手く説明できないことの穴埋めにもなっているような気がする時もあります。

柔軟にいかなくてはいけないところ、沢山あります。学生が毎年入れ替わっている中での試行錯誤はそのための時間でもあるかなと思います。

大人は子どもの未来の姿です。
私たち大人がシアワセじゃないと、子どもたちは未来に希望を持てないです。
だから、子どもたちに過去の自分の穴埋めを求めてはいけないんです。

知識を伝える立場においても、これは忘れたくないですね。その時の感情も時にできるだけ乗せていきたい。

校長室通信HAPPINESS ~校長の挑戦 「教えないサッカーの授業」(田中成志)

小学校での校長先生と少年サッカー指導に携わっていらっしゃる田中成志さんの記事です。校長先生が体育の授業をやったときのお話です。


「やる前からあれこれと教えない」ということ。でも、教師はつい教えたくなる。たぶんそれは「子どもは教えなければできない」「丁寧に教えることが教師の仕事」という誤った認識からです。教師の丁寧すぎる指導は、子どもの「考える機会」を奪います。コツを教えるのではなく、「自分がどうなっていたのか」「どうすればできるか」を考えさせること。そうすれば「考えるクセ」が身についてくるはずです。

常に意識しながらも、それでも忘れてしまうというかやりすぎになってしまっているんじゃないかということがおきうる部分でもあると感じています。ゴールがなんなのか、、、自分の行為は手段の1つであるということ。

「ルールの工夫」は、大切な「思考・判断」の場ですが、だからといって何でもかんでも変えればOKってわけにはいきません。ルール変更の目的はあくまでも「みんながもっと楽しめるゲームにする」です。ハンディを埋めるためにどんなルール変更を考えたのか、これが評価のポイントです。

担当している講義の中でも多様な学生が限られた中で体を動かす時間があります。同じように誘導しているけれど、うまくいかない時とそうでもない時が起きてきます。もっと「仕掛け」の部分を自分自身で磨いていくことの必要性を感じています。勝手ながら、そういったことを文章にしていただいたような感覚です。


歩くのが、早い国ランキング(街中なのに やまおくさん⁈)

スポーツ施設作り・管理運営・指導者育成・健康スポーツのハードウエア―・ソフトウエア―開発などをされている、「街中なのに、やまおくさん?!」の記事です。

普段からよく歩いているだけに、タイトルだけでもう惹かれてしまいます。記事には歩行速度の都市別ランキングが掲載されています。これを引用してしまっては、、、なので是非そちらを。個人的にはちょっと意外でした。

身長差や歩幅は、差ほど関係ないようで、知らぬ間に行き急いで生活しているのが現代人。

それぞれの中でのバラつきってどのくらいあるんでしょうね。自分のデータ、今の環境での相対的な関係性は何となく把握できているけれど、もう少し視野を広げてみても面白いなと感じます。


自分の値段(Keita Imada)

「コーチのコーチ」をされているkeita Imadaさんの記事です。日本では特定の競技のコーチであることが多いですが、競技横断的にも活動していらっしゃいます。

「一回あたりの値段を教えてください」

これは今の活動をしている中では必ずある場面です。色々な状況によって幅も生まれるけれど、最初からそんなこと言っていたら話も進みません。互いに擦り合わせていく上では双方の条件がぶつかり合うことも必要です。

自分の値段をつける。

ある種、社会における自分自身の価値を図る一つの指標。

一度決めたからOKではないので、今後も常に向き合っていくことが求められる課題です。私自身はもちろん拘束時間や業務内容にもよりますが、「優先度」というところも含まれていますね。実際に対面してコンセプトなどが変わるわけではないし、トレーニングという範囲の中で「ここまでのスキルしか教えません」とはならないですね。もちろん関わり方によってそこまでやったら半端になってしまうなということは出てきますが。

子どものため、次に繋げるため、という大人の自己満(Daisuke Kubota / あしたのために)

一般社団法人あしたのためにプロジェクト代表であり、サッカーコーチでもあるDaisuke Kubota さんの記事です。

次に繋げるためとか言うけど、次って何なんですかね、と。
子ども達のため、とも言う。でもそれ、本当に子ども達のためなのかなと。
子ども達のためとかいう美辞麗句、使いすぎて錆びつきすぎて、それ、ただの大人の自己満なんじゃないか。

「子ども達のため」と大人が飾って言う言葉は、子どもが本当に望んでることじゃないんじゃないかと、切り替えが早すぎる僕はキムチを食べながらそう考えてました。

小学生の指導をされていて感じられたこと、とのことですがこれは高校生においてもそうだなと思います。

「〇〇のために」
私自身の中で、これは使わないように心掛けている言葉でもあります。もちろんずっとそうだったわけではないし、意識していないけどそう捉えられかねない部分は現在もあるのだろうと思います。「良かれと思って」というところもあるでしょうかね。

よく「怒る」と「叱る」ということも言われますね。近年は下手に教育的な意味合いに託けるのではなく、率直にどう感じたか。「会う言うプレーは嫌だな」とか「ああいうことしてしまうのは悲しいな」とか。

良い/悪い、ではなく、感じ取ったこととして。だんだん年齢が上がってくると「その行為に対して」ということになるかもしれないけれど。怒るでも叱るでもなく。

それでも、年齢差や立場的にいつの間にか関係性が構築されてしまうので、何かを言うと「すいません」と言われることもあります。今はこれをどんどん減らしていきたいところです。

あとがき

今回は関わり方の部分が多かったように思います。もちろん他にも沢山あるのですが、この5記事をピックアップさせていただきました。このような試みを始めて、自分の中にあるけれど、言葉にできていない部分を整理できたりあらためて考えるきっかけをいただいています。

毎回拙い感想しか書けないところが難点ですが、クリエイターの皆さんありがとうございます。

過去のピックアップ記事

こちらにあります。





読んでいただきありがとうございます。日々の雑感やスポーツ、運動にまつわる数字を眺めてまとめています。普段はトレーニングサポートや講義を行なっています。