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2022年6月12日日本長老教会志賀キリスト教会説教メモ

2022年6月12日日本長老教会志賀キリスト教会説教メモ。
一つは自分のため、一つはノンクリスチャンの方と御恩寵のお裾分けと思い載せています。

「 捨てた石が要の石になりました 」
マイケル・カーター牧師

聖書箇所 新約聖書 ルカの福音書 20 章 9 節~18 節
20:9 また、イエスは人々に対してこのようなたとえを話し始められた。 「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。
20:10 収穫の時になったので、彼は農夫たちのところに一人のしもべを 遣わした。ぶどう園の収穫の一部を納めさせるためであった。ところ が農夫たちは、そのしもべを打ちたたき、何も持たせないで帰らせた。
20:11 そこで別のしもべを遣わしたが、彼らはそのしもべも打ちたたき、 辱(はずかし)めたうえで、何も持たせないで帰らせた。
20:12 彼はさらに三人目のしもべを遣わしたが、彼らはこのしもべにも 傷を負わせて追い出した。
20:13 ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。そうだ、私の愛する息子 を送ろう。この子なら、きっと敬ってくれるだろう。』
20:14 ところが、農夫たちはその息子を見ると、互いに議論して『あれは 跡取りだ。あれを殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たち のものになる』と言った。
20:15 そして、彼をぶどう園の外に放り出して殺してしまった。こうなっ たら、ぶどう園の主人は彼らをどうするでしょうか。
20:16 主人はやって来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与え るでしょう。」これを聞いた人たちは、「そんなことが起こってはなり ません」と言った。
20:17 イエスは彼らを見つめて言われた。「では『家を建てる者たちが捨て た石、それが要の石となった』と書いてあるのは、どういうことなの ですか。
20:18 だれでも、この石の上に落ちれば粉々に砕かれ、またこの石が人の 上に落ちれば、その人を押しつぶします。」

 →神殿で教えられた教えの一つ。教えられても、心を開く事ができなかった人たちがいる。聖書を読めば、こういった間違いはしないだろうと思いやすい私達がいる。
自分達の心の中を確かめてみる必要がある。
私はもうもくでなかろうか?
神様の裁きの中にも憐れみがあることを忘れないでいたい。

 →当時の宗教者は、この話自体がわかったことはわかったが心で理解していなかった。ぶどう園の主は神様、農夫たちは宗教者。所有者の息子はイエスキリストを指す。16節で、ショックを受けたがこのことば通りになってしまった。
 イエス様を受けいれるどころか、宗教学者らは殺してしまう。

 →これは、私にも自分の罪にも盲目になっていないか、チェックする必要がある。罪は私達に神様を拒絶していないのに、拒絶していると思わせる。クリスチャンがなすべき事をなしていれば、神様が祝福があるのではないかと思いがちになっている。
 →私達は、神様の恵みを必要としているのに、恵みを必要として生きていく事ができないのはないか?神様の恵みが毎日必要な事を忘れてはいないか?

 →私は、神様の恵みが、毎日必要である罪人である事を謙虚に認める必要がある。神の恵みによって救われた罪人であることを思い出しているか?毎日、神様の憐みによって、キリストなしに何もできない事を認める必要がある。自分の考えが神様の恵みを超えていないか、確かめていく必要がある。

 →神様の忍耐がどれだけであるか?ということも、この聖書箇所から知っていく必要がある。神様は2回だけでなく4回も赦している。神様は何千年もイスラエルの人達を赦した。それは、私を始めクリスチャン一人一人に与えられている。私は罪を犯してしまうが、神様はキリストをもって赦されていることを再確認すべきである。

 →説教から、私が罪を告白すれば赦されることを再確認する。

 →神様が私を救って下さる為に、御子イエスキリストを贈ってくださった事を再確認。

 →イエス様は私の人生の大切な人である事を確認。今日の最後のような神の裁きを受けないようにイエス様が十字架にかかって下さったことを再確認したいと思います。

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