昔話
そう。俺の幼少期。
既に顔丸いやんって思った人は
正直に言いなさい。
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母親が音楽好きだったこともあり、
物心つく前から家には常に音楽が流れていた。
俺が赤ちゃんだった時、
子守唄がわりに流していたのは
「ゲゲゲの鬼太郎」らしい。
いや、癖強ない?
げげげのげ〜
でキャッキャ笑ってたらしい。
センスあるやん、昔の俺。
自分の最古の記憶を辿ってみても
音楽が大好きな子だったと断言できる。
母親が即興でおもちゃのピアノで弾いてくれた
仮面ライダーの曲を鮮明に覚えている。
子供ながらに
「弾いたこともないのにすぐ弾けるなんて
すごいよ母ちゃん!」
と衝撃だった。
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小学生時代。
割と活発な方な子供だったとは思うが、
人前に立つとか、リーダーシップとか
そういうのは苦手だった。
でも年に一度の音楽祭が大好きだった。
クラスみんなで楽器を演奏するのが楽しかった。
5年生の時、学年全員が演奏する
大きな演奏の指揮者のオーディションがあり
友達の付き合いで参加。
結果、まさかの選ばれる。
当日、大人数の前で指揮棒をふりながら
「てきーーーらーーーー!」
と叫ぶことを余儀なくされる。
そんなん事前に知ってたら
オーディションなんか参加しない。
先言うといてくれや。
地元では今でも会うたびネタになるし、
テキーラテキーラ言われる。
オーディションで俺を選んだのは
小学校の吹奏楽の顧問だった先生。
その先生は5年生の時の担任で
俺に何度も
「いけざわ、吹奏楽部に入れ」と言った。
「サックス、かっこいいぞ?」とか言われた。
22歳の同窓会の時に
才能を感じていた、なのに消極的だから自信をつけさせたかった。恥ずかしい思いをさせてすまなかったと言われた。
今、バンドでギターと歌やってますと伝えると
すごく喜んで、心から応援すると言ってくれた。
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中学生時代。
音楽の授業実技のテスト
歌・リコーダーともに3年間満点という
偉業を成し遂げる。
この辺りで自分は人より音楽のセンスがあるのではないかと少し自信を持つ。
ちなみに筆記はずっと赤点レベル。
モーツァルトだとか音符とか
そんな勉強は知らん。
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高校時代。
軽音部の強い高校に進学。
部活見学に行くも、
「私達の部の厳しさを彼らに教えてあげよう」
的な言葉を吐いた2年の先輩を見て
俺はこいつの下で何年も音楽をするのは
我慢ならんと跳ね返り、入部しなかった。
同じような想いを持ったやつらが数人集まり
「打倒・自分の高校の軽音部!」
を掲げ、外バン結成。
エレキギターに目覚める。
が、
数ヶ月でクラスのいざこざで自然消滅。
進学コースにいたこともあり、
そこまでがっつり練習をしていたわけではないが
3年生になるまで
弾いてみた活動などをしてギターを弾き続ける。
数回SNSを通して、バンド結成の話も上がったが
どれも自然消滅。
3年生の頃、同じ幼稚園だった人から
Twitterでバンドに誘われる。
ギター&コーラス担当。
バンドリーダー。
これが自分の最初の本気の音楽活動になる。
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大学1年はこのバンドとともに生きる。
それなりに充実した日々を過ごす。
そのバンドの解散が決まった頃、高校の同級生Shoma(現メンバー)と再会。
Shomaは大学の軽音サークルに入るも、照明の勉強ばかりさせられてバンド活動ができないと不満を抱えていた。
「外でバンドを組もう。歌上手いやつを知ってる。」
Shomaのこの言葉からcallslowが始まる。
俺はギター&コーラス。
日々、夢を語り合う時間。
青春を感じざるを得ない毎日。
最初に決めた目標
「アメリカ村DROPワンマンLIVEでお客さんをパンパンにする」
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20歳。
成人のタイミング。
両親にやはり音楽で生きていきたいと告げる。
そこで自分の知らない
これまでの事、両親の想いを聞く事になる。
小中学生の頃、懇談の度に母親が
担任に
「この子には音楽をやらせた方がいい」
と言われ続けてきたこと。
母親として、そんな不安定な道に行かせたくなかったこと。
でも音楽をやるべきなのも1番わかっていた事。
音楽の話をしている時の俺が、1番キラキラした笑顔だと言うこと。
色々なことを20歳のタイミングで
話してもらって、聞いてもらって、
最後に父親から
「男として、やりたいように生きろ。けんなら、どんな場に行っても上手く立ち回れる。」
母親からは
「あんたは、やっぱり音楽やな!(ドヤ顔)
大金持ちになって、養ってや!」
という優しい言葉をもらった。
家が厳しく、中々跳ね返りの強い学生時代を過ごしたけど、この両親の息子でよかったと
強く思った。
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初ライブが決まる。
寝屋川vintage。
でも4週間前にボーカルが諸事情で脱退。
出演を辞退することも考えたが、
それでも何とかLIVEをしようと
俺とShomaのツインボーカルで
初LIVEを行う。
即席の編成だったが、当時やれるだけのことはやったと思う。
その後、バンド内での話し合い
このバンドを続けるなら歌を歌うなら
俺だとメンバー全員が思い、
俺がギター&ボーカルになる。
消極的で目立つポジションにいたくない
自分は、この日からフロントマンとして
生きていく事になる。
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ここから僕のボーカルとしての音楽人生が
始まるわけだが、日々葛藤があった。
ギターを弾きたくてバンドを始めた。
ギタリストになりたかった自分。
ハモリを歌うのが好きだった自分。
ギターボーカルというのは
ギター単体の時よりもかなり制限される。
歌いながら弾けない。
弾きながら歌えない。
楽しくない。
歌いたくない。
自分は歌を歌う人間じゃない。
そう思いながら人前で歌う期間が
随分と長かった。
お客さんに失礼なのは言うまでもない。
無感情で歌うことを正義として
解釈は聞き手に委ねる
なんて今思えば言い訳だ。
でもそんな歌でも活動を続けてると
ファンだと言ってくれる人も出てきて。
自分の歌は、もはや自分だけのものじゃなくなってきたと思っていた頃、
バンド主催のイベントを開催した。
無謀な挑戦とも言えたが、
結果満員御礼。
ネットでの活動(ツイキャスなど)で
僕たちの事を知ってくれた人々が
群馬や埼玉など、遠方から見にきてくれた。
この時に自分は
もう少し自由に歌を歌ってみてもいいのかもしれないと思った。
それと同時に
自分はボーカルとして
もう後戻りできないところに来たなとも思った。
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そこから数年。
mixエンジニアになったり
ワンマンLIVEをやったり
ソロ弾き語り活動を始めたり
ライブハウスから人が消えたり
ライブでの声出しが禁止になったり…。
色々な経験をして
それなりに尖ってたものも丸くなってきて、
気づけば、心を許せる仲間もできた。
何よりどんなことがあってもついてきてくれた
大切にしたいファンの方々がいる。
自分は恵まれた環境にいる。
かつて
「歌えない歌で何かを唄っている」
なんて歌詞を書いたこともあったけど、
今は少しだけ、
ほんの少しだけ、
自分に自信を持って歌を歌えている気がする。
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日付変わって本日。
2023.2.14
アメリカ村 DROP
間違いなくcallslowにとって
色々な複雑な想いが渦巻く一日。
まだワンマンでパンパンにするには
実力不足だけど。
最高の仲間たちと共に。
力を借りて、
力を貸して、
特別な日を作ります。
callslowのボーカルとして
フロントマンとして
今自分にできる最大限のパフォーマンスを。
どうか見届けて欲しいです。
よろしくお願いします。
callslow.Gt&Vo Ken