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自閉スペクトラム症の私(父について)

少し話題を離れますが、父は私が幼稚園に通い始めた4歳の頃から、一旦日本で勤務をしつつ、16歳くらいに起こったイラン・イラク戦争が始まるまでイランで勤務し、イラン・ジャパン石油化学(以下IJPCと略す)のプロジェクトで人事総務の業務に携わっていた。

だから私と弟は成長期において、母一人に育てられたような形になる。

母の話はまた別の機会にするとして、父は現地で大変な状況にあった。

以下の文章はIJPCの回顧録に載せた父の投稿文である。

(以下文面)

「思い出」

私がIJPCプロジェクトに係わったのは、1972年(昭和47年)2月15日付でイラン化学開発(ICDC)に出向してから1979年(昭和54年)5月末日までの7年余りになる。
その間、イラン出張5回(約160日)を経て、IJPCサイトへ1977年(昭和52年)1月に赴任し、1979年(昭和54年)4月末までの2年3か月余り滞在した。
今年でイラン革命から42年になるが、革命後2か月余りで私は帰国した。
その頃IJPCの建設工事はほぼ90パーセント以上完成していた。
アルコールOKの時代とNOの時代を挟んで滞在したことになる。
IJPCサイト滞在時の体験は多数の方々が記述すると思われるので、ここでは省略したい。
実は私がこのプロジェクトに参加したのは2回ある。
第1回は前述したとおりであるが、第2回はイラン・イラク戦争の最中である。
IJPC建設工事再開の現地調査の目的で、千代田化工およびTECの工事再開の調査団が編成され、TEC側の幹部の一員として参加した時期がある。
1984年(昭和59年)2月から10月にかけての約8か月間である。
記憶をたどって、その期間のエピソードを述べたい。
2回目のマーシャルキャンプ居住生活は戦時中の日本と同じで、夜は毎晩灯火管制でローソク生活だ。
時々空襲があり、サイレンがけたたましい。
ゆっくり寝たことがない。
毎晩恐怖に怯えていた。
某日、シラーズへ日本からの協力会社従業員240名ほどが到着する為、私はバス9台を連ねて1人でシラーズへ出迎えにサイトを出発、約5分後にイラン側より20数発のミサイル攻撃があった。
当時のイラクの大統領、サダム・フセインが朝のテレビを通じて予告したとおりだった。
IJPCの建設現場は目茶苦茶に破壊された。
この時IJPCの事務所に居れば、私はこの世にいなかっただろう。
後日分かったことだが、私のオフィス背後のガラスは完全に破壊されていた。
この日シラーズに着いたが、チャーター機でシラーズへ到着予定の協力会社社員の人達は予定より半減していた。
日本出発前に羽田空港でイラクのミサイル攻撃のニュースを聞いて、半分程がイラン行きを辞退したそうだ。
その後間もなく、工事再開調査は困難と判断されたようで、テヘランへ避難命令が出されて全員バスでテヘランへ移動し、ヒルトンホテルに避難した。
半月程ホテルに避難していたが、結局はイラン側(?)がテヘランより羽田へのチャーター直行便を用意してくれた。
但し、身の回り品だけの手荷物許可であった。
どういうわけか屈強の革命兵士6人がボディーガードとして同乗したのにはびっくりした。
余談だがホテル滞在中は、ホテル側よりホテル滞在費用を支払うように毎日請求されたのには閉口した。
結局はイラン出国前にイラン側(?)が滞在費用を支払ったようだ。
振り返れば、危険を伴う苦労ばかりのイラン滞在だった。
今生きているのが不思議な程だ。
苦労だらけのイラン滞在ではあったが、その見返りに今日まで神様が長生きさせてくれているのかもしれない。
私は84歳になった。

(以上)

だから自身は53年間病気とは言え、苦労したことは自業自得以外全くないと言える。

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