関東大震災での朝鮮人による暴虐の詳細資料---ぎよみどんさんの拡散希望を受けて
「吁(ああ)人間」
桑原真瑞 著
大正13年(1924年)
霊肉統一団 出版
(不逞団の暴行顛末報道が解禁になったのは10月20日)
10月1日午後6時頃、本書中之郷付近で、鮮人・鄭きえい(テイキエイ・さんずいに熙+瑩)なるもの罹災者から衣類道具を掠奪し、それを運搬中取り押さえられ。
同日午後8時過ぎ、氏名不詳の鮮人1名、日本橋北鞘町一石橋際(ぎわ)大谷倉庫へ放火して逃走。
同日午後11時過ぎ、本所柳島電車終点で、鮮人・金孫順(キンソンジュン)なるもの、通行の婦人に暴行を加えんとして果たさず、バスケットを強奪し、一時亀戸署に監禁されたが、同署類焼のため解放され行方不明。
同日同刻2回に渡り、鮮人・姜金山(キョウキンサン)ほか30名の一団、本書柳島元町呉服商、中里奥三方(なかさとおくさんかた)に押し入り、店員に暴行を加え呉服類を強奪、姜は亀戸署に拘禁されたが類焼のため解放。
同日午後6時から11時にわたり、氏名不詳の鮮人15,6名、本所押上町新町裏を、同所、榎木豊吉が夜警中怪しい鮮人団を認めるや鮮人は棍棒で豊吉の額を殴り逃走した、それを群衆が捕え、亀戸小学校で手当中、更に逃走。(「手当て」とは取り押さえている状態のことと思われる)
2日午後9時、府下吾嬬(あづま)町京成電車踏切で、崔先卜(サイセンボク)、金実経(キンジッケイ)の両鮮人が付近警戒中の在郷軍人にピストルを発射して逃走。
同日午後11時、吾嬬町にて鮮人・林松致(リンショウチ)なるもの、伊藤染工場屋根に上り、六連発のピストルで群衆に連射して逃走。
同日同刻、鮮人30名ばかりの一団、府下小松川橋と小橋の堤上に縄を張り、通行中の重砲兵7連隊第一中隊長代理、高橋克己中尉の自働自転車を阻止して危害を加えんとした。
同日同夜、吾嬬町にて、1名の鮮人が銘酒屋の仲居に暴行を加える。
同夜8時頃、荒川放水路木田町修理中のトロ内(深い溝のこと)で、呉海模(ゴカイボ)なるもの、ダイナマイト11個その他を所持しいるを逮捕。
同日、卞奉道(ベンホウドウ)、卞之泳(ベンシエイ)からダイナマイト2個を貰い、南千住字(あざ)千住南の鉄道線路に持ち出したる者あるを捕える。
同夜12時、1名の鮮人が府下瑞江村江戸川橋、橋脚を鉄棒で破壊中、騎兵第15連隊の阪本軍曹らが射殺した。
3日早朝、内地人が1鮮人を誰何(すいか)したところ、ピストルで射殺した上、更に通行中の職人の後頭部を傷つけて逃走。
同日朝6時、警官2名に追われ両国橋西袂に来た1鮮人を、近衛歩兵1連隊、浦谷二等卒が捕えんとしたところ、抵抗した上、爆弾を取り出したので射殺。
同日朝9時、日本服を着た自称・李王源(リオウゲン)なるもの、毒薬亜砒酸を携え、本所菊川町付近の唯一の飲料水である消火栓付近を彷徨中、群衆に捕えられ食塩だと強弁し、そんなら自分で試してみよと、それを飲まされてたちまち悶死。
同日午後1時頃、爆弾入りのバスケットを持った鮮人4名、南葛飾郡水元村内を通行中、青年団に取り押さえられたが逃走。
1日夜から3日にわたり、自称、金(キン)某ほか4名は月島に入込み、警戒中の民衆にピストルを放ちあるいは刀棍棒などで襲撃し、うち4名は取り押さえられたが、そのうち1名は1日夜、深川東森下町の汁粉屋に放火した悪漢、また金(キン)某は2日午後9時、月島2号地渡邊倉庫に放火し2棟を焼いた悪漢である。
この他特に残酷を極めたのは、2日夜10時、南葛飾郡木田町四ツ木荒川放水路提上で、鮮人4名が、避難中の16,7才の娘に暴行を加えた上、殺害して荒川に放棄したということ。なお程ヶ谷山中へ逃げ込んだ鮮人10余名は、5日午後3時頃、40歳前後の『吉田』と刻印ある金指輪をはめた商人風の男を殺害した上、6日夕、帷子川で洗濯している程ヶ谷町、田中まさ(37)に暴行を加えた上、長女ますら(7)と共に帷子川へ突き落したことである。
さすがは不逞鮮人、その残忍ぶりはちょうど露国(ロシア)のパルチザンに似て、より以上酷いやり方、支那の馬賊などの遠く及ばざる悪逆ぶりと言わねばならぬ。
安政以来の大地震で、更に大火災の最中で、幾十万の人間が逃げ惑っておるその最中の出来事であるだけ、群衆の激昂は頂上に達し、不逞鮮人、いな鮮人さえ見れば悪魔のよう、鬼畜のよう、また猛獣のよう見なされたは、実に是非もない次第であった。
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引用ここまで
この具体的地名と姓名入りの情報は信じていいと思う。
しかもここに書かれてあるのは東京、横浜など広大な被災地全体のほんの一部。
韓国政府も日本国内の反日勢力もジェノサイドなどと騒いでいるが、上記朝鮮人の暴虐を完全にスルーしている。
どうぞこの内容を拡散して下さい。
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