政治の台頭と社会科学の凋落
1200年、600年。この二つの数字は、社会科学・自然科学が生まれてから、今年に至るまでの年数だ。およそ長い年月をかけて、この二つの学問は大きく進歩してきた。社会科学では、紀元前の頃から経済学・哲学という学問がすでに存在しており、自然科学でも、近代ヨーロッパにはガリレオ・ガリレイが望遠鏡を発明して以来、人は身体の延長としての道具を確立し、人類史における画期的な発明が生まれた。
特に、自然科学は今でもIPS細胞などの医学的な面で、飛躍的なパダライムシフトが生じているのを人類は目撃している。しかし、社会科学はどうか。
誠に遺憾というか、当然のごとく社会科学という学問は日本においては、特に廃れ始めている。社会科学というと、実質文系学問という括りになるが、日本の大学での研究を始め、論文などでの飛躍的な成果はここ100年余り出ていないのが現実であろう。
こういった現実から、社会科学特に、社会学などは胡散臭い学問、として揶揄されがちなのだけど、なぜここまで自然科学と違いパラダイムシフトを起こせないのだろうか。
理由は主に、いくつかある。この雑記で、全てを書き連ねることは不可能だが、結果としてそこには政治を鑑みる必要があると思っている。
そもそも政治とはなんだろうか。私が思うに政治というのは、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の言葉を真似ながら、「他の見知らぬ誰かを幸せにすること」である。そのために、古代ギリシャにおいても、どうしたら万人が納得のいく方法で投票ができるか、ということが長期にわたって議論されてきた。ルソーが批判した代議制民主主義もその一環としてあるが、結果として万人で決めて万人が納得するというのはとても難しい。
今の日本では、代議制民主主義、いわゆる間接民主主義を敷いている。間接民主主義は世論研究や国際関係論の研究の中で、意思決定に要する時間が、直接民主主義の何倍も時間がかかるとされている。その理由はここでは問わないが、この意思決定というのは、世界的にも組織論として研究されている大事な分野の一つだ。
意思決定が遅いというのは、例えば、決め方がそもそもわからないことや、誰かに決めて貰えばいいというのが横行している社会では特に起こりやすい事象だ。
かつて、社会学者のジョージ・ライト・ミルズは、最近の学問の凋落に「社会学者含め社会科学者は、政治や会社へのポストが増え、官僚主義的になること」の中に解いた。
今の学者たちは、「学者」とは言い難くなっている。著名な学者は会社を立ち上げたり、政治に議員として参加できるようになっている。この傾向がなぜ生まれているのかというのは難しいメカニズムだが、そこには間接民主主義から始まる、意思決定の問題から、学者に政治を判断してほしいという表れから来ている可能性もある。
あくまで仮説ではあるけれど、社会科学者が政治という集団に参加することで、学者の視野はやがて狭くなり、グローバルな社会で関連付ける研究はやがてなくなっていく。政府の中で学者が使われ、やがて政治に削ぐわないものとして排斥される。研究成果も一般化され、時には高度に抽象化されたものも発表されえる。それが大衆操作や、上からの官僚制を作り上げてしまう。もはや学問ではなく、プロパガンダに近づく恐れもある。
学者が政治の中に入り込むという昨今の傾向はどうしても看過されやすい。しかし、研究として学問があり、それに伴う形で社会や政治が進化する社会が理想である。この理想を叶えるのは決して簡単ではないのだ。学者が、思わぬ形で扇動政治家にならないことを切に願っている。
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