第4回 境界仙人
決めた。
俺は境界性パーソナリティ障害を極める。
noteの友人との話の中で守破離の話になった。
守
先人はなぜ尊いか。
先駆者や偶発的に出来た一つの技術や思想を誰にでも理解出来るように、そして継承出来るようにそれに汎性を持たせ「基礎」とする努力をしているからだ。
そうして出来上がった「基礎」を新たな者が学ぶ事によって、その思想や技術の平均点は発展していく。
破
「基礎」を尊び汎性を見つけた者はやがてその中に自分を見る。なぜその思想や技術を学ばねばならなかったか、それが自分の人生そのものが由来している事に気づく。
その一方で人の通った道の中に自分の道はない事を知る。
何者でもないオリジナルな自分を「基礎」に上乗せし思想や技術で自分を表現する。
あるいは基礎を尊ぶ守の段階の人間には叛逆に映るかも知れない。
だがそうではない。
尊ぶが故に、堅固な基礎を築くためにアンチテーゼは必要なのだ。
離
「基礎」と「自我=オリジナル」は時には対立し、融和し新たなステージの何かになる。
それは既に基礎でもオリジナルでもなく、新たな思想や技術そのもの。
そうして思想や技術と同化した者は元にあった思想や技術の新たな基礎(守)の源となるものを生み出してゆく。
利休が提唱したと言われる「守破離」
境界性パーソナリティ障害が俺の考えるとおり過酷な環境への防衛的な適応であるなら、ある意味技術や思想と考えても良いかも知れない。
少なくとも狩人や戦士としての適性にはなるから。
だがそれだけで終わるのはもったいない。
ドぎつい生き方をして修行してきたようなもんだから。
あなたも俺も世界でただ一人のオリジナルであり、ユング心理学で「宇宙観」と言われる人それぞれにある内世界は一つしかない。
双極Ⅱのラピッドだろうが境界性パーソナリティ障害だろうが発達障害だろうが知ったこっちゃない。
俺たちの世界が俺たちに何をもたらすか、他の宇宙と出会って何を生み出すか。
それが重要なんだ。
他人サマが作った看板を有難そうに首にぶら下げるのは本意ではないだろう?
さんざん苦しんで生き地獄を経験して、生きづらさを味わってもう十分基礎はやっただろ?
破るんだよ。
他人が頼みもしないのに用意して、自分でいつに間にかかけてしまった首からぶら下げた牢獄を。
守から破へ。
治すか治さないかはさして重要じゃない。
人が勝手に作った境界性パーソナリティ障害というルールを、苦しくても生きてきたあなたの言葉と魂で自分流に書き換えるんだ。
きっとあなただけの病はあなたしか持ち得ない力になる。
俺が癒されるケア方法も俺のためだけにあれば良い。
まあ「基礎」はいっぱい学んだし、追い求める段階でのフィードバックは同じような道をゆく方々に共有しようとは思うけど。
俺がよりよく「俺」であるためのなにか。
それが欲しいから俺は手放さない。
この「病」を「道」にするために。
俺は「離」すらも超えて、人や自然と和するボーダーの仙人になってやる。
ようやく見えた。
パフパフ求められそうとか封神台に封じられる事間違いなし、とか言うなよ。
自覚してっから。