しばらく続きます。
箱庭を解釈すべきだとするのは実は箱庭療法の本当の意味からはズレている。
そのまま受け止めておれば良いのだ。
事実、ずいぶんとカウンセリングが終わったあとはスッキリしていた。だが、、、分析大好きな俺はそうできない。
謎解きがしたい。
思えば自分の心ほど、スリリングで苦しく楽しい謎解きが楽しいファンタジーはない。それに前回、解釈をウンウンと唸ってやってたから「獣」との統合のきっかけが生まれた。
だから俺にとっては多分必要なプロセスなんだ、きっと。
というわけで昨日の訂正とかそういうものから。
カオス過ぎるので一個一個モチーフを物語として落とし込んで行こうと思う。
俺は「リラックマを最初に置いた」と言ったが間違いだ。
人の記憶は印象によってこんなにも簡単に書き換わる。
その発見は面白かった。
最初に置いたのは川の中(無意識の領域)の陶器製の女の子だった。
俺は後からそれを「俺のアニマ(男性の中の女性的側面)です」と言った。
最初に置いたのは女性的な側面。
そして陶器製の女の子を置くやいなやその上流に仏像を置いている。
その仏像は俺の大好きだったばあちゃんだ。
で、今日それを考えていると
「陶器製の女の子は川の女神だ。そして仏像は先代の川の女神」
だと想起された。
俺の女性的側面はばあちゃんからもらった愛着のようなもので出来ている。
前回の箱庭日記に書いてるんだが、おそらくトラウマへのストッパーはばあちゃんから貰った愛着であり、おれがばあちゃんにされたような抱擁のような優しさが女性的側面なのだろう。
俺はばあちゃんを真似たいのだ。
オネエ疑惑は一旦置いとこうという気になった。
川の下流の橋の下にいるペンギンは前回も出てきていたが、無意識下の俺のペルソナ?人格?のようなもの。
川の上流には俺の世界の慈愛の象徴がおり、現在それは慈しむ心や愛着として俺の中にある。
そしてそれは無意識下にある俺の仮面(ペルソナ=役割、性格)に影響を与えており、ばあちゃんからもらったものを現実に反映させようとしている。
これが今回の川の物語。
次はリラックマの話。
俺別のリラックマ好きでもなんでもなんだけどなぁ。
なんであれが葛藤を抱えて、内世界に目を背けた自分だ、と感じたのだろう。
次回
「リラックマと柵の正体」に続く。