心象風景 「獣の帰還」
俺の内世界には「獣」と呼ばれる者がいた。
境界性の人格を分離させたような存在。
今思えばこの「獣」は俺の解離した人格の一つだったのだろう。
心理士と一緒にこの「獣」を害のない「ワンちゃん」に変容させてから、俺の回復の速度は恐ろしいまでに加速した。
今年の2月の事だ。
それからと言うもの、気分は安定しADHDの薬(漢方薬)は断薬に至り、信じてもらえなくてもいいが左目の視力まで0.2から0.7まで回復している。
あるいはこうした寓話的なものもケアに繋がるものだと感じる。
自分のナラティブ-物語-を描き直す。
トップダウンのトラウマケアの本質はこれではないかと俺は思う。
少なくともファンタジー脳の俺は 笑
ちょいとだけトラウマを刺激されて、怒りに囚われた。
フォローしている方の著書を読んで、虐待している親の記述を読んでドス黒い怒りに飲まれていた。
「この世のこんな奴らを根絶やしにしてやりたい。最も残虐な方法で一人一人処刑しながら。」愉悦。それを想像する喜び。
義憤などという、とってつけたような「正しい」理由なんて要らない。
俺は俺の復讐心と、俺も、この世界も、全て嘲笑い、ただ壊せればいい。俺が壊れればいい。これが誰の歪みであるかなんて興味はない。無に還すなどという救いは要らない。ただ在って、ただのたうち回って無秩序に狂気を喚き散らせばいい。
野に放て
解放して何が悪い。
だが「まあやめとけ」と俺は俺に言い聞かせた。
俺の内世界の登場人物は人格ではなくペルソナとして無意識の中に去っていった。
しかし箱庭を見ても解るようにワンちゃんと化した「獣」だけはいた。
ふと気づく。
今なら俺は「獣」を飼い慣らせる。
怒りや憎しみ、仄暗い愉悦に支配されない。
前ほどのコントロールの不全は感じない。
なぜか「今」だと気づいた。
俺は「獣」に戻って来い、と心の中で呼びかけた。
ワンちゃんではなく、変容などしなくてもいい。
そのまま俺の中にいろ、と。
手足の先が痺れて、頭が少し痛くなった。
想像世界の中で「獣」は俺の背中に乗った。
なぜだが、幼い頃父親に背負われて、いつも遊んでいた公園から帰ったのを思い出した。
そして少し涙が流れた。
お前はお前でいい、かつて俺の内世界の「ラスボス」だった「獣」
今なら俺はお前を受け入れられる。
統合なんてどうでもいい。
あえて言うなら、お前が俺の中に居る事も「自己」の統合なんだ。
全き俺になるなら、境界性の人格すらも受け入れなければならない。
境界性の人格であり、境界性の人格でない。
これが個性化の道なんだろう。
帰って来い、苦しい時もずっと一緒にいただろう。
ナラティブなんて何度でも描き直せばいい。
お前は俺の盟友だ。
差分1
途中で文章が切れているのは「遊び」です。
某SNSで「獣」がワンちゃんに変容した時にこんな文章を書いたのを覚えてる人いたらいいなぁ 笑
差分2
これは「獣」の声なんだろうか。
「ワンちゃんとかダッサいのやだったんだよねー」
お前まだそれ気にしてたの? 笑