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イミテーションゴールド

第二次ニクソンショックが起こって以来、カネは金ではなくなった。

前はね、お金ってのは「金」と換えられるレートがあって、それによって世間のさまざまな経済的価値は決まっていた。

まあ、、資本主義社会においては、だけど。

だがこの第二次ニクソンショックってのが起こったのさ。
ドルと金は変えられない。
変動相場制ってやつだ。
貨幣価値は国家の信用性とか将来性とか国際情勢とかそういうもので決まるようになった。

最近思うのはさ、
WEBやSNSが発達しだしてから人々の「評価」が「金」に変わりつつあるな、って。

どこそこのレストランに行くのも口コミと評価。
就職するにしても、デートスポットを探すにしても、Youtubeのどの動画を見るにしても評価や閲覧数がモノを言う。

一見解り易い指標ではあるんだよ。
どれだけの人々に支持されているか。

だがそれは同時により多く評価され、クレームが少ないサービスが至上とされる大衆主義(ポピュリズム)だ。
そこに専門性や質の良さは究極的には問題にされない。

これは俺の提唱する「漂白化社会」とも関連があって、より支持されるためにはあらゆる「クレーム」を回避しなければならない。
何かを主張すれば誰かが「傷ついた!」と叫び、それが瞬く間に「炎上」する社会。

より「傷ついた!」と言われないもの、いいねやスキをもらえるものが「よいもの」だとする社会。

だが一方で、こうした「よいもの」やクレームの少ない「いいね」はドパミン中毒の現代においては人々によって日々消費され、消化され、情報のウ⚫︎コにならざる得ない。

言わば、瞬く間にウ⚫︎コに変わる「金」の中で俺らは生きている。

おいこらソコ「黄金だしね」とかトンチのきいたこと言っちゃダメだぞ。
俺はまあまあ真面目だ。多分。

「評価」自体が価値を持ち、経済に変わる社会。

これがサイバー神経発達症というかWEBによる神経特性を持った人々によって営まれた場合、本当に公平性や透明性を担保出来るのか、という危惧を抱かざる得ない。

まあね、こんなものは「パンと見せ物」というテーマで紀元前の共和政ローマの頃から取り沙汰されてたことだ。
今更俺が何か言ったところで意味なんてない。
それに原材料や原資がなくても「価値」を産む、幻を「カネ」に変えられる、という意味ではこの「いいね経済社会」は賢者の石を見つけた良い社会なのかも知れない。

だが古い頭のオッサンはどうにも気持ち悪いのだ。

賢者の石=評価=カネ=ウ⚫︎コ

な社会が。

あ、そう言えば俺、営業職だった。
今日はなんかそういうウ⚫︎コを錬金術をしてる自分がヤダ。

なんかねーやっぱねー
9月はいかんわ。
こんな風に神経がやられてるのか認知的に鬱る。

というわけで久しぶりに明日クリニックに行って来ます。

この世はイミテーションゴールドかステイゴールドか。
はたまたその両方なのか。

愚者の黄金は賢者の石なのか。

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