人見知らない、人見知り
いつからか忘れたけど
たぶん青年期から現在に至るまで
ずっと人見知りです
ずっと治したいと思っても
ずっと治ってくれない人見知り
ずっと治る兆しもない
とても厄介な人見知り
この症状は根深く
たぶん治ることはなさそうだ
それでもコイツと共存して
共に生きていくしかない
しかし、そんな自分でも稀に
人見知りをしない瞬間もある
それは”好奇心が動いたとき”です
激しく心が動き、興味が爆発したときは
人見知りという分厚い壁を
知らず知らずのうちに
ぶっ壊している瞬間がある
好奇心のスイッチが入ると
不思議と人見知りは
一時的にどこかへ消え去ってしまう
その一瞬のような時間は貴重で
本能が踊り出すような
命が震える感覚になれる
そして好奇心が満たされてしまうと
自然と人見知りは元へ戻ってしまう
戻って来なくてもいいのに
清く正しく元の居場所へと
当たり前のように戻ってしまう
とても厄介な人見知りです
今回は好奇心が発動して
人見知りを飛び越える
ほんの少しの瞬間について
書き綴ろうと思います
✳︎
最近の興味や好奇心の多くは
ボクシングへと向いている
ボクシングを始めて
ちょうど10ヶ月になる
体力、知識、技術など少し身に付き
今がいちばん楽しい時期かもしれない
ボクシングジムへ通うようになって
ジムで練習する人たちと
会話する機会が増えている
ジム内にいる人に対して
人見知りの壁は薄く
会話って楽しいなと思えている
その理由はボクシングという
共通言語や苦しいトレーニングの
共有体験があるからなんだと思う
ボクシングをやっていて
最も人との距離が縮む行為は
「スパーリング」です
(リング上で模擬的な試合を行うこと)
3分2ラウンドの6分間の
苦しいスパーリングが終わると
信じられないほど相手との
心の距離が縮んでしまうのだ
理由はわからないけど
苦しいスパーリングの後は
何か特別な親近感が相手に芽生える
また会話をしない方が違和感を感じてしまう
よくボクシングの試合の終了後に
リングの上で抱き合い
お互いを讃え合う光景を
皆さんも見たことはあると思います
あの感覚は何となく理解ができる
理屈や理性を飛び越えた
絆のようなものが生まれるんだと思う
青臭い考えかもしれませんが
拳を交わした人間同士の心の中には
戦友感のようなものが芽生えるんだと思う
✳︎
ジムでスパーリングを終えた後は
汗を拭き、呼吸を整えながら
対戦した相手と雑談をする
ジム内では皆それが定番化している
・フットワークが軽快で速かったです
・ガードの上からでもパンチ効きました
・左のカウンター狙ってましたよね
・普段どんなトレーニングやってますか
などなど言葉がスラスラと出てくる
そんな会話をするのが楽しい
普段、他人との会話が楽しいだなんて
ほとんど思えない自分にとっては
新鮮で好奇心が刺激されてしまう瞬間です
あの特別な時間だけは
人見知りは遠くへ消え去っている
無邪気だった子供の頃の
高揚感に近い感覚になってしまう
もしかしたら、あの瞬間の為に
ボクシングをやってるのかもしれない
そんな事さえ思ってしまう
不思議な快楽や魅力がボクシングにはある
✳︎
ボクシングは相手との
距離を縮めないと
自分のパンチは当たらない
当然、距離を縮めると
相手のパンチをもらうリスクもある
ボクシングは勇気が必要なスポーツだ
”勇気を出して相手の懐に飛び込む“
これを普段の生活での人間関係でできたら
人生はもう少し豊かになるのかもしれない
でもそれが、どうしてもできないのだ
どうしても、人見知ってしまう
”人見知り“って何なんだろうと思う
甘えなのか?自意識過剰なのか?
そもそもそんな概念は幻で
人見知りなんて存在してないのか?
よくわからないけど
人見知りという感覚があるからこそ
人見知りが消え去った瞬間の
ひと時の快楽を味わう事ができる
人見知りだからこそ得られるモノがある
そう考えると人見知りも悪くはないと思う
こんな風に思ってしまう自分の思考では
やはり人見知りは治りそうもないですね
それではまたCiao!
【後記】
ボクシングジムを出て
目の前に自動販売機がある
練習後そこで飲み物を買っていると
さっきスパーリングをした相手と
出くわすことが何度かあった
人見知らない時間は本当に短いもので
数分前まで楽しく話してたのに
突然、人見知りが発動してしまって
気まずい空気でサヨナラをしてしまう
ジムを出たら人見知りが戻ってしまう
相手に対して申し訳ない気持ちと
自分に対して嫌悪感を感じてしまう
最近はジムの前の自動販売機で
気まずい空気になるのが嫌なので
ジムの裏の通りの細い路地の
よく分からないメーカーの
マイナーな自動販売機まで行って
飲み物を買って飲んでます
やはり人見知りは面倒くさいものですね。