なぜ友達と会わなくても平気なのか
結論:もう一生分遊んだ。この先の交友は全ておまけ、と思っているから。
以前、こんな記事を投稿した。
今のところ一番読まれている記事。ご閲覧ありがとうございます。
今回の投稿では、なぜそんな形の交友をしているのか、もう少し深掘りしたいと思います。
約10年間で、死ぬほど遊んだ
今ではほとんど友達と合わない自分も、10代の終わりから20代の終わりにかけて、めちゃくちゃ遊んだ。
飲み会、宅飲みでタコパや鍋パ、オールでカラオケ、花見、ビアガーデン、BBQ、海水浴、旅行、ライブ、フェス、舞台鑑賞など。
友達に恵まれていたこともあり、自分なりにではあるが、かなり遊び倒したというか、遊び狂っていた、と思っている。
どれくらい狂っていたかというと、遊ぶ金ほしさに、祖父が積み立ててくれていた定期預金を解約するほどだった(馬鹿でした。本当にすみません)。
遊びまくっていた頃の記憶は、今でも大切な思い出である。思い出を超えて、人生の基盤といってもいい。それくらい、貴重な経験で、必要な時間だったと思っている。
しかし、変化が訪れた。
数ヶ月会わない間に、微妙な空気に......
ある時期、新たな趣味としてソロキャンプを始めた。
テントの設営、焚き火、キャンプ飯。全てが新鮮で、楽しかった。
吹き抜ける風、小川の流れ、木立の中の静けさ、空の月や星など、触れる自然、目にする自然の全てが綺麗だった。
野生動物との出会いもあった。イタチやタヌキの出現には心躍り、茂みの奥に潜むシカやイノシシ、クマの気配にビビったりもした。
約4ヶ月間、ほぼ全ての週末にソロキャンプに繰り出し、その期間中、友達には一切会わなかった。連絡もほとんど取らなかった。そして、久々に飲み会で会うことになったのだが。
強い違和感。物凄く、よそよそしい感じになっていたのだ。
なぜあれほど良くない方へ関係が変化したのか、今でもよくわからない。会わないうちに何かが変わってしまったのだろうが、それが何なのか。
自分が変わったのか。相手が変わったのか。お互いが変わったのか。その結果、噛み合わなくなってしまったのか。
それ以降、その友達とは、数回会ったのちにフェードアウトするような形になった。
時間や距離に淘汰されない関係
定期的に会うことが大事なのか。友達ってそういうものなのか。そういうものだったのだろうか。それとも、自分はあまり良い友人ではなかったのかもしれない。あまり好かれていなかったのかもしれない、なんてことを考えて、それなりに苦しんだ。
でも、受け入れるしかなかった。「他人は変えられない」ということは、それまでの人生で嫌というほど思い知っていた。どうにもできない領域がある。
この出来事以来、「時間や距離に淘汰されない関係こそが本物」と考えるようになった。
本物とか偽りとか、良いとか悪いとか、そういう物差しで図れるものなのかどうかはわからないが、とりあえず今はそう考えている。また何かのきっかけがあれば、この考えも変わるかもしれないが。
今現在、付き合いのある友人たちは、これに当てはまっている。
連絡は滅多に取らない。お互いの仕事、趣味、生活がある。相手の時間を可能な限り尊重したい。
でも、たまに連絡を取り合って、会うことになる。その時には、その時間を精一杯、のんびりと楽しむ。近況報告、読んだ本、仕事で起こった面白い話など、とりとめのない会話をする。もちろんお互い、話せることと話せないことがある。そこはお互い線を引いて、踏み込まない。全てを共有はできないし、しようとしない。これも一つの尊重。
長時間だらだらすることはない。会うのもせいぜい2時間くらい、長くても3時間程度か。それで十分だと感じる。そんな感じで時間を過ごし、「それじゃ、また」と別れる。
彼と、彼らと会うのは、いつも楽しい。
でもたまに、仄かに、「生きている間に、あと何回会えるかな」とも思う。
いつか友達がゼロになったとしても
というわけで、友達と疎遠になった経緯やら何やらを書いてみた。まとまりに欠ける、読みにくい文章だったかもしれない。おまけに、長い。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
ここ数年は、新しい出会いがない。そういうものを求めていないということもあるが、意図的に、人間関係を広げないようにしている。プライベートでも、職場でも、である。
なぜか。人間関係に関しては、今の感じで十分だと感じているからだ。
なので、今の交友関係がなくなれば、友達ゼロの人生になるだろう。でも、それでも構わないと思っている。
「今現在の興味の対象」があり、「良い友達と死ぬほど遊んだ記憶」が確かにあるからだ。
自分にとって後者は、いわゆる「大きな石」だと断言できる。あの時期にあの経験をできてよかったと、心の底から思っている。
孤独路線が強すぎる感もあるが、今回の投稿も、人間関係にお悩みの誰かにとって参考になれば幸いである。