【猪犬トリビュート】名著『紀州名犬語り草』で称賛される紀州三名犬
紀州3名犬とは?
昔も現代も、イノシシ猟師にとって、猪犬は最も大切なパートナーであることに変わりなく、明治維新後社会が急速に欧米化する中でもイノシシ猟犬は、昭和の30年代ごろまで日本犬(和犬)が主体であった。但し、市街地の日本在来犬は西洋犬との雑化が急速に進み、大正末期には純粋の日本犬は山間僻地の狩猟犬として残るのみとなっていた。
一方、各方面で起こったナショナリズム(国粋主義)は日本固有の自然・生物にも波及し、日本在来犬にも保存の機運が高まった昭和の初め、各地の地犬が「日本犬」として天然記念物に指定されることとなり、昭和9年5月に紀伊半島山間部に猪・鹿猟犬として生き残った日本犬も天然記念物に指定された。
それを機に全国で日本犬ブームが起こるが、全国的にも辺境の紀伊半島の日本犬は知名度が低く、他産地の日本犬と比較してもマイノリティー(少数派)であり、一計を案じたのが地元の日本犬の保存・愛好家石原謙氏であった。
石原謙氏は、先の紀伊半島在来の日本犬を「紀州犬」とした名付け親であり、また、紀州犬を世に広めるべく後世まで名著とされる『紀州名犬語り草』を上梓、その中で3頭の猪犬を「紀州3名犬」として取り上げ「紀州犬=猪犬」としての名声が一気に高まり、全国的に「紀州犬」が知られることとなった。
猪犬の代名詞とまで言われた紀州犬の名声は、その後現在までも続いているとも言える。「紀州名犬語り草」は、まさに石原氏による紀州犬界の「広報マン」としての戦略であったのではないか。
猪犬の世界も昭和30年代終わり頃からはハウンド等の洋犬種が台頭するが、現在でも猪犬としての和犬は日本の風土・環境にあった猪犬として根強く使用され、その中でも紀州犬は我々現代の猪猟師にとっては格別の存在になっているとも言えるのである。
日本犬保存運動の中心となる「日本犬保存会」が昭和3年に設立され、「紀州名犬語り草」は、その会報『日本犬』に石原氏によって掲載されたものであり、筆者の資料では昭和14年刊行の『日本犬の検討』(犬の研究社発行)に掲載されたことで一般の日本犬愛好家が目にすることとなり、紀州犬が一躍脚光を浴びることになったのである。
そこで記述された「紀州3名犬」は、今では想像もつかないほどの「名芸」を持つ猪犬として神格化されるほどであるが、現在、紀州系猪犬・和犬系猪犬を友とする猟人と、今後それらで猪猟を志す若い人の一助になればと解説を交えて考察する。
「紀州3名犬」とは、和歌山県熊野地方の山間部で大正末期から昭和初頭に「猪犬」として活躍した「鳴滝(なるたき)の市」・「義清(よしきよ)の鉄」・「喜一(きいち)の八」の3犬であるが、犬名の頭にある「鳴滝」は飼い主の立溝由太郎氏の屋号、「義清」と「喜一」はそれぞれ上尾義清氏・坂本喜一氏の名前を冠したものである。
なお、3名犬のうち「喜一の八」の記述中に「大正11年生まれ」とあり、これは現代の資料で判明しているが、他の2犬は資料が乏しいため筆者が独自で調査した結果の推測生年である。以下、3名犬について「名犬語り草」の要点について解説する。
鳴滝の市号
「鳴滝の市号」(以下「市号」)は、「名犬語り草」文中では「成瀧」とあり、飼育者も「溝義太郎」となっているが、正しくは「鳴滝」および「立溝由太郎」である。
市号は、大正7年に色川村(現那智勝浦町色川地区)の当地一番の猪猟師と言われた立溝由太郎氏が、隣の高田村(現新宮市高田地区)の殺生人(猟師)から当時の金額「50円」で買った犬で、生後26日の仔犬に50円も出したことを近在の猟師に笑われた程であった(大正7年ごろの50円は現在価値で25~50万円程度。編集部調べ)。
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