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冬眠中のヒグマを狙う猟師がひいた悲劇の引き金 〜 丘珠炭焼き小屋事件|北海道|明治11年

本記事は書籍『日本クマ事件簿 〜臆病で賢い山の主は、なぜ人を襲ったのか〜』(2022年・三才ブックス刊)の内容をエピソードごとにお読みいただけるように編集したものです。


はじめに

本稿では、明治から令和にいたるまで、クマによって起こされた死亡事故のうち、新聞など当時の文献によって一定の記録が残っている事件を取り上げている。

内容が内容ゆえに、文中には目を背けたくなるような凄惨な描写もある。それらは全て、事実をなるべく、ありのままに伝えるよう努めたためだ。そのことが読者にとって、クマに対する正しい知識を得ることに繋がることを期待する。万一、山でクマに遭遇した際にも、冷静に対処するための一助となることを企図している。

本稿で触れる熊害ゆうがい事件は実際に起こったものばかりだが、お亡くなりになった方々に配慮し、文中では実名とは無関係のアルファベット表記とさせて頂いた。御本人、およびご遺族の方々には、謹んでお悔やみを申し上げたい。

事件データ

参考:『ヒグマ:北海道の自然』(犬飼哲夫、門崎允昭/1987[昭和62]年)
  • 発生年:1878(明治11)年1月11~18日

  • 現場:北海道札幌村・丘珠村(現・札幌市東区)

  • 死者数:3人

冬眠中のヒグマを見つけ
猟師が狙い銃撃したが……

クマによる人身事故のうち、戦前に発生した三大悲劇の一つとされる札幌丘珠おかだま事件。本事件は、その中でも最も古い明治時代の事例である。事件は、1878(明治11)年1月、真冬の石狩国いしかりのくに札幌村(現・札幌市東区)で発生した。

1878(明治11)年の「開拓使公文録」の記録(※1)をはじめ、同年3月に刊行された『札幌農学校第二年報』、当時の『北海道新聞(1881年1月20日夕刊)』等によると、概要は以下のようなものである。

※1 北海道立文書館資料2495号「円山山中等ニ熊害アリ警察課雇入之ヲ銃殺ニ付手当金等ノ件」

当時の札幌村は開拓間もない時期であり、人口は8,000人に満たないものだった。現在のような大都市の様相はまったくなく、原生林が残る自然の色濃い地域であった。当然、そこには多くの野生動物が棲息していた。

1月11日、山鼻村爾志通にしどおり(現・札幌市中央区南2条)に暮らす猟師のAがヒグマの捕獲に出向いた。ヒグマはすでに冬ごもりをしている時期である。

そんな状況下、円山(現・札幌市中央区)と藻岩山もいわやま(現・札幌市中央区・南区)の山間にクマ穴を見つけ、冬眠している1頭のヒグマを発見した。

当然のことながらクマ穴にこもっていたヒグマは無防備であり、猟師にとっては千載一遇の好機である。そう思ったAは、一発で仕留めるべく引き金をひいた。

だが、急所を外してしまった。

ヒグマの弱点は鼻とよくいわれるが、体全体にももちろん痛点がある。突然の銃撃を受けたヒグマは、覚醒すると同時に激昂してAに襲いかかった。

詳細はわかっていないが、Aは、この現場でヒグマにより咬殺された。

極寒の猛吹雪の原野で
興奮状態のヒグマが逃走

Aを殺害後、ヒグマは穴には戻らず、周囲の原野を徘徊する。

銃撃により傷を負ったヒグマは、冬眠状態から無理やり覚醒させられ、さらに空腹ということもあったのであろう。興奮状態のまま山を下ったものと思われる。

数日後、札幌村内にヒグマ襲来、という報が札幌警察署に届き、同署の警察吏、森長保が駆除隊を急遽編成。「熊討獲方」として猟師(1月16日に4人、翌17日に2人)を雇い入れ、ヒグマの足跡を追うかたちで捕獲作戦を開始した。

駆除隊とヒグマの最初の遭遇は、札幌村と川を挟んだ対岸の村、平岸ひらぎし(現・札幌市豊平区平岸)だった。ヒグマは、A殺害現場である円山のクマ穴から豊平川を渡渉し、平岸へと移動して行ったものと推察される。

この地でヒグマの姿をとらえた駆除隊だったが、ヒグマは俊敏に逃げ回った。

逃走経路は、平岸~月寒つきさむ(現・札幌市豊平区月寒)~白石(現・札幌市白石区)、さらに豊平川を再度渡渉し、雁来かりき(現・札幌市東区東雁来)方面へ、というものだった。この一帯は当時一面ほぼ原野である。

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