朝に正しい道を聞いたからと言って、本当にその日の晩に死んでもよいということではないのでは
子いわく「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」(論語、里仁第四)
(先生がいわれた。「朝に正しく生きる道が聞けたら、その日の晩に死んでもかまわない」)
論語の中でも非常に有名な一節ながら、正直今でも捉えどころが難しいと思っている一節です。
素直に読むと、「正しい道を聞くことは、その日の晩に死んでもかまわないくらい、とても素晴らしいことだ」ということを孔子は言われたいのでしょう。
また、正しい道を聞くということは、そうそうあることではない為、そんなことがあれば死んでも構わないよ、ということでもあるのかもしれません。
ただ一方で、「朝に正しく生きる道が聞けたなら、その日から正しい道を実践したい。」ということはないでしょうか。実際のところ、死んでしまっては、正しく生きる道を実践することはできません。
そう考えると、実はこの一節は、朝に正しい道を聞けたなら、本当にその日の晩に死んでもよいということではなく、
正しい道を聞くことは、その日に死んでしまっても構わないくらい感激するものであり、そしてその感激を抱えて実践していく、ということなのではと勝手に想像するのです。「本当にその日の晩に死んでもよいということではない」がポイントです。
誠に勝手な解釈ですが、そう考えると少しは腑に落ちます。