忖度に疑問を感じる人生(1)
さて、今日から #気の向くままに 連続してnote.comに投稿してゆくことにした、『 #自分ネタ 』で。
翻ってみれば、何かに反応する人生だった。
大げさ?いや相当核心を突いている。たとえばFacebookで興味深い投稿をみつけたら、出来るだけ自分なりのコメントを付けてシェアしている。でも、元投稿に触発されての結果。これ実は、小学校入学以来、ずっと続けているのかも。
私は保育園・幼稚園には行かなかった。それを自分で選んだ。
姉・兄の時代は、幼稚園に通うのはまだ一般化していなかったと思われる。私の番になって、お袋が「幼稚園に行くか?」と尋ねたことを明確に覚えている。そして通園を断った。何故か?理由は覚えていない。今思いつく理由は世間に慣れてなかったから、多くの幼稚園仲間と"ワサワサ"するのを先延ばししようとしていたんだろう。不思議でしょう、"ワサワサ"!
当時長屋住まいで、2軒隣には学年が同じ男の子がいたし、近所の子供たちと遊んだ記憶もある。同時にある記憶が母親からの「近所の子との遊び禁止令」。この理由もオボロゲ。私が生まれる丁度1年前に直ぐ上の兄が産まれ、その日のうちに亡くなった。戸籍上は産まれた次の日に亡くなっていることになっている。あまりに不憫だからせめて戸籍上は寿命を1日延ばした、と。これは理由を聞いている。そして辰年生まれの男の子だから「龍男」さんと命名されている。お袋、相当ショックだったんだと思う。1年後に生まれた私を、大事に?甘やかせて?育ててくれたんだろう。その一端が幼稚園選択権の私への付与だったんだろう。
幼稚園に行く代わりに、ひらがなの練習帳とか絵本とかを買い与えられた。ほぼ一人で遊んでいた?いや時間を過ごしていたんだろう。
そうか、ひとり時間が長い幼少期なんだ!私は。
それで、小学校に入ると、小学校や同級生の流儀に慣れることが第一と考え、「世間に合わせる」風習が始まった。これを現代風の表現にすると、忖度や植民化の2次スタートとも言える(1次スタートは産まれてきた瞬間)。
今思うと、忖度人生、別の言い方で
「忖度に疑問を感じる人生」
はいくつかのフェーズに別れる。
忖度に違和感を感じ始めたのが、小6~中3の時期。小学校入学当時ワサワサしていた教室が小学校6年生になると静かに。教師の問いかけに、誰も何も言わない。教師が立場で話しているのを察せるようになる。中3の時「世も末と思いし頃は中3の 悲しきことに我むせびなく」と和歌を読んだ。3階か4階の教室で授業を受けつつ、「あの窓から飛び出せば死ねるんだな」と思ったことも。
(つづく)
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