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忖度に疑問を感じる人生(4)

解放された好奇心

一浪後、希望の公立大学の通信工学科に入学。しかも学費月1000円で、全国で最安値だったと記憶している。直前まで国立大学も月1000円だった。公立大学は授業料アップの波が最後になっていたからなぁ~、当時。親孝行もできた(笑)ま、上手く波に乗れていた。

大学は予備校より南の堺市にあった。南海電車利用。阪急-国鉄(JRになっていたか?)-南海と遠距離通学になって、さらに好奇心を募らせるところが沿線にあった。大阪難波にあった南海球場にも同期と一緒に野球観戦に出掛けた(1回だけ)。弁天町の「餃子の王将」で10人前30分とのタイムトライアルに挑戦したことも。泉北ニュータウンの公園に植わっている萩を剪定するという生垣屋さんのアルバイト(その生垣の一部は輸出される)とか、造船会社の研究所で基盤から半田付けされた部品を外すアルバイト(溶けた半田が飛び、左目眼球ヤケド涙)とか経験。京都の美術館に出掛けたり、六甲山を海側から登り有馬温泉に入って帰ってくるとか、試写会などの無料券を当てて毎月のように映画をみたり、時にはサミー・ディビスJr.のコンサートに行ったりしていた。同期の仲間と、岐阜の白川郷や、隠岐の島含む中国地方一周(日本海側~瀬戸内)、スキー旅行(長野が多かった。夜行列車で床に寝て)などに行った。そうそう、ひとり旅の最初は合格が決まった直後の紀伊半島一周1泊旅行だった。瀞峡のジェット船に乗り、尾鷲のユースホステル泊、松阪駅で「松阪牛しぐれ巻き」を土産に買った。過酷な1泊2日だった。このときも詰め込んでいた(笑)

好奇心が解放され、行動範囲は拡がった。
学内では?

進路の方向は絞られた。大学院進学を決める。

大学では実験が多かった。レポートが多かった。
生協で科学計算電卓が1万円?で売っていた(もっと安かった??)買った。研究室には手動計算機が残っている時代。

時代はコンピュータが表舞台に登場しはじめた頃。NHK教育テレビでミニコンの機能や操作を解説する番組があった時代。そう、ミニコンを作るといより使いこなす方に興味が湧いた。一言でいうと「ハードで無く、ソフトウェア」を選んだ。

そんなこんなで、ハードウェアの細かな原理を明らかにする電子回路の授業、身に入らず。今なら、選択科目にして良いかと思うがその当時は必須だった。大学が世の中に追いつかない部分を感じていた。

4回生になり、研究室に配属されてた。FORTRANという言語でシミュレーションするのは計算センターのコンピュータを使っていた。入力はパンチカード、出力はラインプリンタ。
当時、NECからTK-80というマイコンが発売されたのを個人で買って研究室に持ち込んでいた。何に使う訳で無く、遊んでいた(笑)マイコン、パソコンが音声認識の研究室ですら皆無の状態だった(ICとかLSIは転がっていました)。
2022年現在の「スマホが当然な時代」とは隔世の感あり。この46年、異常に大きく変化している。異常な波に、現役時代も、早期退職後も乗ってきてる。でも確実に距離を置いている。
4回生、進路を決めねば。
高校生の時の判断の延長線で、通信工学エンジニア(しかもソフトウェア関連)と決まっていた。
企業の研究職も魅力があったが、枠に入らず、エンジニアで。
さて、大卒で就職する?院卒にする?

  • まだ実社会にでるのは早い。

  • 箔を付けよう。

と(笑)大学院進学を決めた。
ある種、マーケティングだったのかも、自分を売り込む。

興味は多方面にあっても、特別に何かひとつを極めようとするところがなかった。単に幼稚園を拒否したように時間稼ぎだったのかもしれない。

「何かひとつ」を極めるための、取材をやってきたと思う、今日まで。
大学院の時期に、その後の人生に大きな影響を与える人との再会があった。
大卒で就職したら再会は無かっただろう。
(つづく)

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