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AIがあるのに、なんで英語を学ぶの
英語の勉強は絶対必要派、クラスに3名
NIKKEI Film(日本経済新聞)の動画が面白いです。神奈川県の公立小学校の成田潤也先生が、小5の英語の授業で、生徒にAI翻訳をリアルに使わせて「英語の勉強はこれからも本当に必要?」と揺さぶりをかける授業のドキュメンタリーです。
それを見た後、前回はfacebookに「料理」に例えて書きました。「今の時代、コンビニもスーパーの総菜も外食もUber Eatsもあるのに、料理を学ぶ意味あるの?そんな問いに似てない?」と。その投稿に続けてうめちゃん先生が「そろばん」の例で意見を書かれて、それそれ!と思いました。
「AIがあれば〇〇は不要」論
電卓が普及し始めたとき、「そろばんはもう不要だ」という議論がありましたね。実際、そろばん塾はかなり影響を受けたと思います。
ですが、今もなお、良いそろばん塾は残り、近年むしろは 右脳の発達、ひらめき、集中力 などの効果が見直され、再び人気が高まっているとも聞きます。
こうした流れは、AIの時代にも通じるものがある気がします。
・AIが外国語の翻訳も会話もしてくれるから、英語は学ばなくていい?
・AIが絵を生成してくれるから、絵を学ばなくていい?
・AIが曲も作ってくれるから、作曲も学ばなくていい?
・AIが自動運転してくれる時代になったら、運転もできなくていい?
・AIが文章も書いてくれるから、国語も作文もやらなくていい?
AIが全部答えを出してくれるから、何も覚えなくていいんじゃね?
「AIが〇〇してくれるから、〇〇は不要」
この議論はいくらでも出てきそうです。
学ぶ目的を“実利を得ること”だけにしてしまったら、AIには適わない時代になりつつあるのかもしれません。
それってあなたのAIですよね?
昔、心理学を学んだときに「機能快(きのうかい)」という言葉を知り、とても腑に落ちたことを思い出しました。機能快とは、「人が本来持っている能力や機能を使うことで、自然と幸せを感じる」という考え方です。
身体が動くのに動かさないまま、頭を使えるのに使わないまま——
「なんでもAIマインド」になると、そんな状態になってしまいそうです。
まるで、自分に「下駄を履かせて歩く」ような感じ。ぱっと見はいろいろできる人になれてしまう。身の丈以上に見せられるけれど、「それってあなたのAIですよね?」みたいな…?。
特に子どもには
◎いろんな感情を伴ってトライすること
(悔しい、などのネガティブも含め)
◎「やったらできた!」という喜びの体験
こうした 「学びの本質」 を大切にしていくしかないのかな、と個人的には思います。
AIでさらに速く深く学べるという世界観で
外国語でのコミュニケーションは、AI利用は確かに超絶に便利です。でも、スマホ越しの会話と、直にポンポン話せるテンポ感や、瞬時に理解しあえる心地よさは、やっぱり違うはず。たぶん笑顔の数も。
AIはもちろん使っていい。
でも「AIがあるから学びをすっ飛ばす」のではなく、AIという最高に使い勝手のいいアシスタントを使って、さらに速く深く学べるんだ、という世界観で行くほうが、幸せで豊かで自由なんじゃないかな、と思います。
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