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指たちの日常

 草の湿ったようなキツい香りが辺りを包む。さっきまでしとしとと降り続いていた雨が止んで、モワッとした晴れ間がやってきていた。山の天気は変わりやすい。ここ、草ノ森美術館は、そんな天気の慌ただしい場所に佇んでいる。

 館内はいつも静かだ。冷房の効いた白い展示室を歩いて行く。
 壁にかけられた奇妙な絵画に、私の目は釘付けになった。

 道路の上に大きく描かれた5本の指先。人間の手のようだが、それぞれの指からは、爪の左右に、小さな耳が生えていた。
 無性に引き寄せられ、あろうことか、絵に触れたい衝動に駆られる。額縁をそっと撫でると、ピリッと刺激的な、静電気のような衝撃が指を伝った。
 反射で手を離してパタつかせる。
 しばらくすると、まるで蚊に刺されてしまったかのような痒さが、指先に広がった。
 そして再びその手を見ると、5本の指には、それぞれ小さな耳が生えていた。

 美術館の帰り道、せっかくなのでと道の駅へ買い物に立ち寄る事にした。美術館を出たあたりで手を見ると、さっきまで生えていた耳は、いつの間にか消えていた。よかった。それにしても、あの耳は一体、なんだったんだろうか?

 レジを終えて、大量に買い込んだ野菜をビニール袋に詰めこむ。これは結構重そうだ。
 右手の中指と薬指を袋の取っ手に通してそれを持ち上げ、私は車へと歩き始めた。
 店の扉を出たあたりまで歩いた時、頭に小さな声が響く。
「人差し指さんと小指さん、ずるくない?全然仕事してないじゃん。」
驚いて手を見ると、指先には、いつの間にか耳が生えている。
「いや、野菜でしょう?コレくらい2人でなんとかしてよ。」
人差し指と小指が、だるそうに力を抜いていた。
空いた左手で咄嗟に手を隠す。だが、気がつけば左ゆびにも耳が生えてきていた。

 車に乗って、家路を目指す。運転を始めると、指先達のざわめきは収まり、その耳は、いつの間にか消えていた。

 ベランダで菜園仕事をしていた時のこと。私は土をまぜ、これから植える苗の土壌を整えていた。水で湿らせた土が芳醇な香りを漂わせる。これは気持ちよさそうだな。
 左手の指先を、土を作ったばかりのプランターに突っ込む。ヒヤッとしていて、柔らかい土の感触が広がった。
「あぁー。」
「良きかなー。」
「ふひぃー。」
まるで一番風呂に入った老人達のような声が頭に響く。
 左手の親指を静かに持ち上げると、そこにはあの、小さな耳が生えていた。
 「私も入りたい。」
右手の人差し指の囁き声が聞こえた。それに続いて他の右手の指達も、土に入りたそうにウズウズと騒ぎ始める。
 私は右手の指先を、プランターの土に突っ込んだ。一番風呂の老人が増える。まるで銭湯だ。皆リラックスしていて、とても穏やかな雰囲気だった。

 指から耳が生えてくるのは突然で、それが消えるのも突然だった。それは私の意思とは関係なしに勝手に現れ、いつの間にか消えていく。コントロールできなくて困ることも度々あるが、人間味にあふれた彼らに付き合うのも、また粋だなぁと感じることもしばしばだ。それにしても、美術館に飾られていた、あの絵は一体、なんだったんだろうか。

 右手の小指の根元が赤く腫れている。ついさっき飛び回っていた蚊に刺されたようだ。小指さんが、痒いかゆいと騒ぎ始める。私の指達には、今日も、平和な時間が流れている。

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