しみずのはなし 梶原山
執筆者:すずき
吉川墳墓に書かれてました
梶原を討ち取ったとあった
梶原さんが自害してしまったのが
梶原山だそう
そんな梶原景時
昔々鎌倉幕府を開いた将軍源頼朝から
とても信頼されていた梶原景時
頼朝が亡くなると仲間の武士に憎まれ
自分の領地に退いていた(相模一の宮)
だんだんと身の危険を感じ
西暦1200年の正月には一族郎党引き連れて
京都に向かいました
駿河国(静岡)まできたところ
清水興津あたりで土地の豪族に
囲まれてしまう
景時も武士ですから簡単にやられては
面目がたちません
迫り来る敵と戦いながら高部へと
逃れていきます
しかしそこでは新たな敵が現れます
(これが吉川墳墓の吉川氏でしょうか)
あまりの敵の多さに流石の梶原一族も
徐々に劣勢
とうとう景時と景茂の親子だけになり
大内の山に入ると
「我が命運尽きたり
敵の手にかかるよりは
自害しよう」
と言ったかどうかはわかりませんが
そこで自害してしまった
この山が梶原山と呼ばれる様になった
大内には梶原堂
高橋には一族を祀る供養塔が
建てられています
今でも悲運の一族の供養に
お祀りしているそうです
お祀りをしないと悪いことが起きる
と言われているそうで
1920年頃大内で大火事があった時
景時の供養をやめようと言った人が
いたとかいないとか
訪問看護ステーション有度の里がある
清水区の話
色々と繋がってきますね
時代は変わっても人の営みの
本質は変わらないのかもしれません
昔話の中からも
今を生きる私たちが学べる事
たくさんありそうです
土地の人からの話
好物です♪
いいなと思ったら応援しよう!
社会福祉法人恵和会をぜひよろしくお願いします。サポート費用はしっかりと活動費用として使わせていただきます。