激動のシーズン 天皇杯優勝その後①
スーパーカンガルーズは、エースの負傷と引き換えに天皇杯優勝を成し遂げました。
今回は番外編として、負傷したY田選手のその後をお伝えします。
怪我した選手を輸送
治療に関してすぐに矢作義孝先生(前出)に相談し、大阪で手術・リハビリする方針が決まりました。
まず、負傷しているY田選手を大阪まで運ばなければなりません。
骨折している選手を大阪までどう運んだのか?気になりませんか?
まず、航空会社に相談しました。
結果、すぐに座席を15席ほど買い取ることになりました。飛行機の中に簡易ベッドを作るためです。
病院から空港までは、病人を搬送する移動用の車両を使い、飛行機の下まで直行します。
チケットの確認や危険物ボディチェックは、空港の人が車に来て車内で行いました。
面白かったのが、Y田選手の足は金属のギブスでガッツリ固定されているため、金属探知機の音がやたらピーピー鳴ったことです。
その後、そのままベッドごとリフトして飛行機に入ります。
大阪に着いたら飛行機の下に救急車が待機。
リフトを使ってゆっくり降ろされ、無事に大阪の病院へと搬送されたのでした。
可能性を信じる
私は、「例え不可能と思われる事でも、まず信じることが大切」だと思います。
なぜなら、最初から〝無理〟と突き放してしまったら前に進めないからです。
Y田選手は、大阪の病院に到着後、即手術をする予定でした。
試合直後から完全に固定されていたため、自由に動けず、まだユニフォームを着ている状態です。
数時間後、手術は終了しました。
術後、彼が言った最初の言葉は何だと思いますか?
彼は私にこう言ったのです。
「手術室で、ユニフォームを切られました。すぐに新しい物を作って下さい。」
驚きました。
彼は、シーズン後半に出場する気でいたのです。
これ程の怪我であれば、今シーズンはおろか、無事に復帰できるかどうかもわかりません。
私は、「分かった!分かった!」と答え、ただ涙が溢れるばかりでした。
Y田選手は〝骨が折れても、心は折れていない〟のでした。
阪神淡路大震災
優勝の喜びや、エース負傷の憂い、シーズン後半をどう戦うか試行錯誤している最中、日本中を揺るがすことが起きました。
阪神淡路大震災です。
独身寮で寝ていた我々も、激しい揺れで飛び起きました。
この時、Y田選手は入院中でしたが、咄嗟に術後の足を抱えて逃げようとしたそうです。
大阪市内の大きな病院でしたが、相当揺れたのでしょう。
あの強心臓のY田選手を持ってしても「死ぬかと思った」と話していたことを思い出しました。
続く。
最後までご拝読いただき、ありがとうございました。次回、もう一度復帰に向けてのエピソードをご紹介します。
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