人生何があるかわからない
今回から実業団編に入ります。まずは私がどうやって実業団に入ったのか。そのきっかけからお伝えしようと思います。
なんという大人の世界
大人の世界がこれほど汚いと思ったことはありません。信頼していた恩師が発した一言が、耳を疑う一言だったからです。
大企業勧誘を必死で断る
あれは、大学4年にあがる春休みのことでした。N体大は、恒例の大阪への遠征、バスケットボール界の強豪、M下電器での合宿の最中でした。宿舎で食事を終えた時、私だけ別室に呼ばれました。
そこには、N体大S先生とM下電器の監督さんが並んで座っていました。私は、震える声で「失礼します」と一礼着席しました。するといきなり、M下電器の監督さんから関西弁で、うちにきぃへんか」と、思いがけない言葉が発せられました。まさか、選手ならともかく、当時は大学のマネージャーが実業団に行くなんて、聞いたことがありませんでした。
私は、地元に戻って教員をする約束を高校恩師と交わしています。そのためにN体大に進学したともいえます。「教員をするつもりです」と、即座に断りました。M下電器の監督さんも「2〜3年、うちでバスケを学んでからでも遅くないんちゃうか」と間髪入れずに押してきました。負けずに「地元に帰ります」と即答しました。それでもM下電器の監督さんは、「教員の給料は安いやろ、うちで貯金してきぃや」と迫ってきます。もう頭は大パニック!その場の緊張感もあり、「申し訳ありません、もう恩師と約束しているので」と必死に断る自分がいました。
見かねたN体大のS水先生が、「わかった、教育実習の打ち合わせも兼ねて、恩師の先生に相談に行ってこい」と提案。一旦話は終わりました。私は内心、「絶対に、M下電器には行かない」と誓っていました。
まさか⁉︎の一言
遠征後、帰省しました。すぐにO石先生に連絡し、いつものお寿司屋さんで食事をすることになりました。
一通りお寿司もいただき、お酒もいい具合に進んだ頃、例の話を相談しました。
・大阪でM下の監督さんから誘われたこと
・地元に戻る約束だったので断ったこと
・S水先生から相談するよう言われたこと
などを話し、O石先生にビールを注ぎました。
私は当然、「地元に帰ってこい」と言ってもらえると思っていました。先生もそう約束してN体大に送り出してくれたはずです。しかし、O石先生の口からは信じられない一言が発せられました。「いい話じゃないか、大阪に行け」。もう、ずっこけました。そして、すぐに悟りました。〝もう話はできあがっている〟と。
同級生の後押し
悩みました。恩師の一言はありましたが、どうも決心つきません。そこで、同級生に集まってもらい相談しました。すると、三宅キャプテンから「俺もN本鋼管で頑張るから一緒に頑張ろう」。永野君も、「俺たちの代は実業団が少ないから、マネージャーでも行ってくれたら、同期として嬉しい」と言ってくれました。これで、大阪に行く覚悟はできました。
人生何があるかわからない
後日、M下電器の監督さんに、「お世話になります」と連絡しました。それでも地元に戻って教員をする思いは断ち切れず、2〜3年マネージャーやって地元に帰ろうとも考えていました。それが、2〜3年どころか、M下電器を退社しても大阪に残っているんですから、人生って何があるかわかりません。
今日のまとめとしては、「たまにはきたない大人の策略に引っかかるのもアリ」ということでしょうか。
今回はここまでです。いつも最後までお付き合いいただき、心から感謝しています。次回は、私を大阪に引き込んだ、M下電器の清水良規(しみずよしのり)さんをご紹介できればと思います。ご期待ください!