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Buenos Aires の街を行く。 -ブエノス・アイレスへ-
ちょうど今から5年前の6月
私は南米アルゼンチン、ブエノス・アイレスに向けて飛び立った。
プロのタンゴダンサーになる、という想いからだった。
この時、アルゼンチンタンゴを踊り始めて6年。レッスンやミロンガ(アルゼンチンタンゴのダンスパーティーのこと)に通い詰め、踊り狂いながらダンサーを夢見るサラリーマンだった。
笑えるような話だが、
“ダンサーなれる、なりたい”
と実際に思ったのは、地元名古屋でタンゴを習い始めて半年を過ぎたくらいの時だった。
初心者のくせに図々しくも 、”ダンサーになりたい” ではなく ”なれる” と思った。そして、とにかく踊ることが楽しくて楽しくて、どんどんのめり込んでいった。
そうするうちに、出会った先輩や先生からタンゴの本場ブエノス・アイレスという街の話を聞くようになり、地球の裏側にある遠い遠いその街は朧げながらいつかは行ってみたい憧れの場所となった。
私が初めてタンゴを踊った場所は、カルチャーセンターのタンゴ教室。とっても優しいカップルの先生達は、明るく丁寧に教えてくれた。
そしてクラスメイトの皆も、とても優しかった。そのおかげで、人生において初めて踊るダンスというものはとにかく楽しいことばかり。
半年も経たないうちに、月二回のグループレッスンは物足らなくなった。
もっと踊れるようになりたい。
半年後の夏、アルゼンチンタンゴ専門のダンススタジオに通い始めプライベートレッスンを受けた。一回受けてプライベートレッスンの虜になった私は更に、アルゼンチンからやって来る本場のダンサー達のプライベートやグループレッスンも受けるようになった。
更に、この想いに拍車をかけたのは、当時の先生の誘いで参加した東京のタンゴスタジオ発表会。タンゴを踊り始めて4年目、人前で踊ることの喜びを初めて知った瞬間だった。
この面白さを知ってからは、半年ごとに発表会に出続けた。出続けることで、人前で踊ることの魅力はもちろん、そのための準備や練習、考え方など、実際のプロダンサーの舞台裏の世界をちょっぴり覗くことができた。それは、当時の先生がプロダンサーの厳しさを語り、または実際にその姿を見せてくれたからだと思う。
いちタンゴスタジオの、ごくありふれた発表会だったけれども人前で踊るということはプロと同じ。とても厳しかったが、あの厳しさがあったおかげで、ブエノスに来てから舞台に立つ上で困ったことはほとんどない。
結局、ブエノス・アイレスへ旅立つ一年前には月に9〜12時間のプライベートレッスン、そのため東京に通い、平日は夜中に近所のレンタルスタジオを借りては自主練習に明け暮れ、週末はミロンガで踊った。名古屋には、プロダンサーが常に駐在しているタンゴスタジオはほぼゼロに等しかったから、東京のレッスンへ通った。
当時の私は、ごくごく普通のサラリーマン。
どんどん膨れ上がる費用を毎月のお給料でまかないきれなくなるのは時間の問題で、いつからかコツコツずっと貯めてきた貯金を崩さずにいられなくなったが、構わず没頭した。
こんな具合で好き放題練習しただけあって、名古屋という地方の人間としてはそこそこ順調に上達していったのではないか、と思う。
一方で、ダンサーになるために”行動をする” ということに関しては、正直なところ日本での6年間では(いつ)とか(何をどうする)という具体的なことほとんど何もしていなかった。
“絶対にダンサーになる、なれる” とはっきりしたものが心の底にあったから、今すぐに道は分からずとも、いずれその時が来るだろうと思っていて、のんきと言えばかなりのんきだったな、と今でも思う。
実際、どうやったらダンサーになれるのか具体的にこれが正解という道はないし、ダンサーと言っても言葉の意味はとても広い。
ただ、会社員として働いて生活費を確保しつつダンサーをやる、ということは全く考えておらず、ダンサーになるなら、職業=ダンサーになるのだということだけは思っていた。
そんな私が、実際に会社員からダンサーの道へと進むきっかけの一つとなった出来事が起こる。
会社からの異動辞令。
絶対にダンサーになると思っていた私だが、それは会社員としての仕事を適当にやっていた、ということではない。少々矛盾するかもしれないが、プライドを持って働いていた。
しかし、いくら意思を高くもって働いていても、上層部の決定により簡単に私の人生は変えられてしまう。
過去数回の転職と社内異動の経験からこう感じていた私は、一生懸命に積み上げたものが、簡単にそして一瞬にして奪われてしまうことにとても悲しく思っていた。
最後となったこの異動辞令を聞いた時、
ようやく私は自分の人生を自分で前に進むべくハラをくくった。
『ダンサーになる、アルゼンチンに行く』
今でもよく覚えている。
炎のような、燃え上がるような想いだった。
誰も私からタンゴは奪えないー。
実際の出発は、それから約1年後。
情けない話だが、前述のとおり出費がかさんでいたおかげで貯金を使い込んでおり、予定する期間アルゼンチンで滞在するには足りなかった。
”アルゼンチンに行く。会社を辞める”
と報告した母親から、
(会社辞めてアルゼンチン行きたいなら好きにすればいい。あなたの人生だからね。でも一つだけ、もしお金が足りなかったら、志半ばで帰ってこないといけなくなるよ)
というこの一言に、納得。
異動辞令を受けて1年間、ブエノス留学資金のために働き、サラリーマン人生に終わりを告げた。
あの日ハラをくくれたことは、とても大きい。
現実として、ブエノスに留学したらダンサーになれるわけではないし、どこかのダンス学校を卒業したらとか、試験に合格したらダンサーになれるというわけではない。
ダンサーになれるという保証は全くどこにもない。将来的な不安を考え始めたら、その不安に喰われてしまっていたと思う。
今も、そして今後も、この日の決心が人生一番の飛びっぷりだと断言できる。
あの頃の私がいたから、
今の私がいる。
今の自分が、未来の自分をつくる。
2015年の6月10日、
翌年の2月帰国予定で、関西空港から飛び立った。
……
現在もcuarentena、外出禁止令中のアルゼンチンですが、今後の人生にこの時間は何かの意味がある、と思い大切に過ごしています。
今回は、
私がアルゼンチンに来てからちょうど丸5年が経ったということで、タンゴを始めてからブエノスへ行くに至ったまで、のお話でした。
夢を叶えるのに、これが正解というものはなく、人の数だけ夢を叶えていく方法があります。
私が思う大切なことは、
自分の情熱を大切にすること。
そして、その情熱の炎を燃やし続けること。
これは夢の大小に関係なく、そして何をするにしても根底にあるものではないかな、と思います。
それから、もう一つ。
自分を信じること。
自分を本当に本当に心の底から信じてやれるのは、自分です。
特に日本人は謙虚です。時に図々しいぐらいに自分を信じてあげることは、とても大切なことだと思います。
私はずっと、
ダンサーになると本気で信じていたし、
いつだって私は上達し続けている、と本気で信じていました。
会社員からプロダンサーへの道は、周りの人々の助けや応援、幸運など、本当に様々な事が積み重なってできた道です。
でも、この”情熱”と”信じる心”はやはり大きいと思います。
想いの強さというものは、
現実を動かしていく力があります。
まだまだ夢半ばの私、
今後の自分を楽しみにしたい思います。
そしていつか
誰かの心で燃える炎を、更に燃やす助けとなることができたら幸せです。
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