エッセイ万歳②ー『イルカも泳ぐわい。』
はじめに
このエッセイは、お笑いコンビAマッソの加納さんによって書かれた初めてのエッセイだ。彼女たちは、「尖っている」と表現されることが多いけれど、最近は笑顔の2人をテレビでよく見ることが出来る。私は、「尖っていた」と言われる2人も好きだし、今の「丸くなった」2人も好きである。
そんなAマッソの加納さんが、どんな風に世界を切り取って、どのような表現をするのか、気になって、この本を私は読み始めた。
読み進められない
ワクワク、ウキウキして、この本を読み始めた私であったが、最初から6つか7つのエピソードを読んだところで、それ以上読み進めることが出来なかった。
中には面白いと思うエピソードもあった。「こいつの足くさいから洗ってんねんー!」は、加納さんの二つ上の兄に関するエピソードで、調子のいいお兄さんのことを加納さんが、腐しながらも愛のあるタッチで描いている。プロのお笑い芸人の「いじり」は、愛が感じられて、誰も嫌な気持ちにならないのだ。その絶妙な技である「いじり」を素人が下手に真似するから、それは「いじめ」になるのだと思う。加納さんの芸人としての技量の高さが感じられる、エピソードだと私は捉えた。
しかし、それ以外のエピソードでは「何か違う」となり、私の本棚でこの本は積読状態となってしまっている。加納さん、ごめんなさい。
加納は加納、私は私
その原因を考察するに、私は、私の理想の「尖り」を加納さんに投影していただけなのだと思う。私はよく、自分のやりたいことを押し殺しながら、仕事をしているときに、「Aマッソ加納さんみたいに、尖ったこと言いてぇー」と思うことがある。よくあるシチュエーションで言うと、教壇で、保護者の目・管理職の目を気にしながら、差し障りのないトークを展開している時、例えば「努力は大切で、日々の積み重ねは絶対に裏切らない」などと言っている時などに、Aマッソ加納さんを思い出す。
努力したって、上手くいかないこともあるし、努力しなくたって上手くいくこともある。そもそも努力するのが善とされるのも、ある時代の価値観にすぎないから相対化することが大切。でもね、やっぱり努力は、続けるしかないんだよ。
これくらい加納さんだったら、言ってくれるかなって思うのだ。
そういう自分の中の「尖り」を加納さんに投影していた面があった。だから、エッセイを読み始めたときに、自分の理想の「尖り」と加納さんの「尖り」とのギャップに驚いて、読み進められなかったのだろう。
でも、当たり前だけれど、加納さんは加納さんで、私は私で、別個の個体であり、考え方も違っている。過剰に、加納さんの「尖り」と自分の「尖り」を重なり合わせていた自分に気づいた時、端的に言って、「自分がキモい」と思った。
おわりに
結局は自分と他者との境界線を、しっかりと引くという当たり前のことなんだけれど、そういうことに気付けていない自分を発見させてくれた、素晴らしいエッセイでした。アラサーになって、どんどんおじさん化していく中で、キモい自分はどんどんと自分で倒していくしかありません。最後まで読んでくれて、ありがとうございました。これからも、加納さんを応援しています。
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