窓を挟んで、君と僕

午前六時三十分。

寝る前にセットしておいた目覚ましの不協和音は、なにくわぬ感じで、いつも通りに僕の気分を最悪なものにする。非常に迷惑だ。

ひと息つく間もなくベッドから飛びあがり、もそもそと出かけるしたくをする。仕事の準備だと思ってしまうと途端に気分が滅入ってくるので、電車に乗るまでは極力今日が仕事だとは考えないようにしている。電車に乗ってしまえば後戻りができないので、そこから先はながれに身をまかせる。さもなければ、基本的になまけ者な僕は職場になんて到底たどり着けないだろう。そういう意味では我ながらがんばっていると思う。もちろん自虐だけど。

駅までは少し歩く。歩くのは割と好きなほうだけど、やっぱり足が重いのは単純に気分のせいだろう。朝の静謐な空気をもってしても憂うつな気持ちがはれないあたり、僕も相当末期だ。なんの病気の末期なのかはどこの病院にいっても診断されないだろうけど、とにかく末期だという実感はある。ヤブ医者にはこの重篤な病気の名前がわからないのである。

駅に向かう人垣に交じりながら、改札を抜け、ホームに向かう階段を下りる。みんながみんな、同じ方向を向いている。みんながみんな、同じような顔をしている。みんながみんな、同じ電車に乗る。僕は思考を止めた。ぶわっと空気がゆがんで、その電車が到着する。僕はながされるようにドアの隙間に入り込む。電車が走る。この電車はどこに行くんだろうと考えて、やめた。四角い窓の外に僕の家がみえる。君の姿はない。


午前五時。

空が白んできたころに、僕はベランダで煙草をふかす。隣の部屋からはどたどたとあわただしい音が聞こえる。そうか、みんな仕事なのかと思いつつ、目の前を走っていく電車を見送った。スーツを着た人たちが電車をパンパンに膨らませている。とっても滑稽だ。

ひと息ついた後に残った仕事を片付ける。この間依頼があった案件の仕上げだ。これが終わったら思う存分アニメを観よう。気が済むまでゲームをやろう。まずはひと眠りしようか。コーヒーでも飲もうか。もう一本煙草をすおうか。ぜんぶ放り投げて逃げてしまおうか。僕はどこにでも行ける。まあ、行くところも行きたいところもないんだけどさ。

感覚としてはもうよくわからないけれど、時間的には朝食であろう食事を買いに行こうと思いドアの前に立った。がちゃりとドアを開ける。ふわりと乾いた空気がよじれて、頬にあたる。冬はもうそこまで来ていた。あと少し、あと少し。あと少しで何が変わるんだろう。僕は考えるのをやめた。踏切が落ちてくる。車の列ができる。みんなどこに行くんだろう。行きたいところがあるんだろうか。それともどこかに連れて行かれているんだろうか。電車が目の前を走っていく。四角い窓がいくつも並んでいる。君の姿はない。


午後六時。

帰り道なんてのは気分が軽くなっているもので、なんとなく時間が引き延ばされたような感じがする。夕食は済ませていこうかとか、本屋さんでも寄っていこうかとか、そんな気分になる。おそらくこれが勘違いに過ぎないことは僕自身よくわかっているつもりなんだけれど、労働の後というのはそういう興奮物質が脳内で生成されるらしい。くやしいなあと思いながらも、僕は帰り道をゆるやかに歩く。ゾンビみたいな人の群れと一緒に改札を抜ける。電車に乗る。結局この電車の行き先はわからないままだ。僕はいったいどこに向かっているんだろう。僕は考えるのをやめた。


午後七時。

意識を失っていた僕はしまったと思った。頭痛がする。誰かこの病気の正体をおしえてくれないかと思ったけれど、残念なことに薬はたっぷりもらっている。自分自身の怠慢な感情を、僕が認めたくないだけなのだ。体を起こして、のそりとベッドから離れる。窓を開けて、ベランダに立つ。おだやかに風がふいて、今ならなんだって許される気がした。電車が目の前を走っていく。あの電車はどこに向かっているのだろう。たぶん、たぶんだけど、少しだけ先に進んでいるのだと思った。のろまな僕を置いて、少しだけ先に。


きっと君はそこから僕を見下ろして、滑稽だと笑うだろう。もちろん否定はしないよ。奇遇なことに僕もそう思っているんだ。でも、こんな生活も悪くないって思えてきたよ。どこに向かっているかなんてわからないけれど、それでも、たぶん生きていける。生きていたってろくなことはないんだけれど、少しずつ僕は変わっていける。君だってきっとそうだよ。あと少し、あと少しなんだ。つらくなったら思い出してよ。帰ったら、声をかけるよ。窓の外に僕の家が見える。君は、そこにいる。


きっと君は僕を置いて、少しだけ先に行くんだろう。でもそれって、とっても大事なことだと思うんだ。だから、心配しないでほしい。僕は大丈夫だよ、きっと大丈夫だよ。どこに行きたいのかなんてわからないけれど、ひとりじゃないことはわかったから。君だってきっとそうなんだと思う。君はもうひとりじゃないんだ。だから少しだけ先に進めた。きっとそうなんだろ?帰ってきたら声をかけるよ。目の前を電車が走っていく。君は、そこにいる。


出かけるときは声をかけにくいものなんだ。少しイヤミったらしい言葉遣いになったりして。なんでかはわからないけどさ。もしかしたらちょっと寂しい気持ちになるからかもね。でも、帰ってきたときにかける言葉はきまってる。窓を挟んで君と僕。

「よくがんばったね、おつかれさま」





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佐々木慧太
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