僕をつなぐもの

関係の境界線を曖昧にすることは、暗黙の了解なしには不可能だ。言葉にしてはならない取り決めが人間同士の距離を保つのである。

僕は、それが他人と自分が別人格なのだと認識するための方法だと確信している。それが唯一の方法かどうかはこの際どうでもいい。とにかく僕はそうだと考えた。身体も精神も、この境界線がなければ観念でしかない。観念を視認化し、身体と精神を表現するということは間違いなく、曖昧にひかれたその境界線の上に成り立っている。

では、僕を僕だと認識している境界線は何だろう。

いや、わかっているんだ、そんなことは。けれど、考えずにはいられない。僕は自分の存在が希薄な気がしてならないのだ。



眩しい。ずいぶん天気がいいな。

窓から眺めた空は、自分の目で確認するよりずっと明るく見える。ぐっ、と背筋を伸ばす。今日は絶好の洗濯日和だろう。小腹がすいた。そういえばのどが渇いてきた気がする。あれ、僕は何を考えていたんだっけ。ああ、窓がキャンバスみたいだ。青い、青い。空に落ちるなんてのはこんな気持ちなのかな。あれ、この香りは…

僕は何もない人間なんじゃないかと、いつもそんな思考にとらわれる。ゼロという概念が存在するのは、意味の不在を特定するためなのだそうだ。もしそれが数字の上だけでなく現実世界にも干渉するのだとしたら、僕にぴったりな記号だと思っている。

こんなにも僕はたくさんの思考や観念や感情というものにとらわれているのに、それを意味付けるすべを持っていない。そんなだからきっとこうして自分の宇宙の中だけにいても平気でいられるのだ。無意味だから、僕に責任は一切発生しない。ここにいれば怖いことなんてない。境界線なんて恐ろしいものはない。ただたゆたうだけでいい。僕はそれが心地いいんだ。

本能が求めるものは三大欲求というおおきな、うん、おそらくおおきな身体的欲求。食事、睡眠、種の保存。これは個人の意思とはおおよそ無関係だ。遺伝子レベルで肉体が求めるもの。じゃあ、僕の、この僕という人格が求めているものは何と呼べばいいんだろう。平穏?安定?どれもいまいちピンとこないんだ。

絶対的に僕を構築しているおおきな要因のはずなのに、僕はそれを上手に表現できない。ああ、この気持ちはいったい何だろう。確かに、絶対に、そこにそれがあるのを感じているのに。

あれ、おかしいな。僕はゼロだったはずなのにいつの間にか意味を持ち始めている。忘れなくちゃ、忘れなくちゃ。僕はゼロでいいんだ。怖いところになんて行きたくない。このまま僕はゼロになって、そして。

あれ、ゼロになったらどうなるんだろう。僕はどうなるんだろう。すでに観念だけの僕が行きつく先。そこは、もしかして、とてもとてもこわいところなんじゃないのかな。ぼくがぼくでありつづけられるほしょうはあるのかな。

ぼくは、ぼくは。





「はい、コーヒー」

コトンとマグカップが置かれるのと同時に僕は目を覚ました。いや、寝ていたわけじゃないんだけど…そういう感じがしたんだ。

「ありがとう」

ずずっと湯気をすする。不思議と頭がさえてくる気がした。

「寝てたの?」

「うん、寝てたよ」

「そう」

そうか、この香りだったんだ。少しだけ表情が緩んだ。

「良い夢だったの?」

「どうだったかな…覚えてないよ」

「そう」


関係の境界線を曖昧にすることは、暗黙の了解なしには不可能だ。言葉にしてはならない取り決めが人間同士の距離を保つのである。

僕は、それが他人と自分が別人格なのだと認識するための方法だと確信している。それが唯一の方法かどうかはこの際どうでもいい。とにかく僕はそうだと考えた。身体も精神も、この境界線がなければ観念でしかない。観念を視認化し、身体と精神を表現するということは間違いなく、曖昧にひかれたその境界線の上に成り立っている。


「今日のコーヒー、おいしいね」

「いつもとおなじだよ」

君は笑う。ああ、これか。これが僕を表現してくれる。僕を形あるものにしてくれる。バラバラな僕を、つないでくれる。

「ありがとう」

これ以上の言葉はきっと境界線を越える。

「うん」

それ以上の言葉はきっと境界線を越える。


僕たちは、曖昧だ。誤解を恐れずに言えば、言葉なんて曖昧なものよりも、この一杯のコーヒーのほうが、よっぽど説得力がある。

曖昧なことはとても怖い。でも、どうせ怖いなら、境界線の上を歩こう。

ひとりじゃないだけ、そっちのほうがまだいい。

君は、どうだい?

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佐々木慧太
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