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どちらでもいい、どちらでなくてもいい。

結局、何も考えてないで描くドローイングが楽しいなあ。

no means no

自動筆記のような。線を見て、次の線を引いていく、しりとりのような遊び。これが、新しい発想を生むし、発見になる。
「どういう気持ちで描いたん?大丈夫そ?」って自分で問いたくなる。
何を表しているのだろう、と考えても、別に何も表してない。
と、いいつつ、無意識のメッセージが込められているかもしれない。

大学1年の大規模な授業。教授に対して何でも質問しろという時間に、緊張して手をあげられなかった質問がある。それは「作品にメッセージは必要ですか?」という内容だ。
あの時、勇気を出せば、という一生忘れられない思い出なのだ。
時間を経て、自分なりに考えた答えは「どちらでもよい」だった。

けれども、10年後くらいに、あの時聞けなかった質問があったのだ、という話を教授にすることができた。僕は酔っ払っており、しっかり覚えていないのだが、「何を作っても、メッセージは自ずと込められる=込められてしまう」「その質問をする時点で、わかってない」という回答をもらったのだった。

これについては、もう少しゆっくり考えてたいと思っている。
そう、作者が嘘をつく場合も、ある。「この絵はこういう意味なんですよ〜」と嘘をついた場合。鑑賞者は「なるほど〜」とわかった気になるが、実は全く別の意図が練り込まれている場合がある。
ある種、作者の言葉すら「誤情報」だったとしたら。
言葉を置き去りにして、鑑賞者の眼で、絵の意図やメッセージを読み取るしかない。

知り合った作家さんから「言葉はエンジン」と言うパンチラインをもらったことがある。同時にその日、「言葉を振り切る速度」というパンチラインをバンドの友人からもらった。どちらでもいい、どちらもあり。
その時々で、自分を裏切っていきたい。

「ひとりでいい、ひとりでなくてもいい」
キューピーハーフ。


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