頑張ろう中堅 vol.12「解釈の欠落」
午後から手術が待っている。寝ているだけなので、何も頑張ることはないけれど、手術後の大変さを考えると気が滅入る。12年前に膝の手術をしたときも、その日の夜は辛かった。
そういえばあのときも3月から4月を跨いだんだったかな。
病院に向かう途中、タクシーに乗った。膝のときもよくお世話になったが、タクシーはこの12年で変わった。車内で話すことが減り、代わりにタブレットで動画が流れている。面白かったり、タイミングによっては鬱陶しかったりもする(こっちのさじ加減なんですけどね、ごめんなさい)運転手さんとの会話。経済的には価値を持たないその会話に、マーケティングが入ってきたということなのか。
タブレットでは、ビジネス層向けのCM。昨日見たのは、「社内の煩わしい仕事は、一括して専門業者にアウトソーシングしよう」といった旨のものだった。専門業者に任せておけば、何も気にせず安心。そんな印象を受けるものであった。
複雑なことは考えなくていいようにする。大袈裟かもしれないが、現代社会の発展と現代人の衰退の原因をそこに感じる。
仕事をしていて、「この先生は頼もしいな」と感じるのは、決定できる人だ。その経験から、何かを決定する立場になれば自分も成長できるに違いないと考え、いろんな役割をさせて頂いた。
自身の成長の如何はさておき、決定には前段階があることに気づいた。“解釈”である。
教員という仕事は、生徒の表情、言動、出欠、手記、成績、あらゆるものを使って行うものである。自身の経験と感覚から「こういうことをする生徒は放っておいてはダメ、絶対声をかけなあかん」と行動を決定するわけだが、その前段階に「10時くらいに生徒本人から欠席連絡。親が知らん可能性あるな。そういえば最近□□と一緒に居るとこを見なくなったな。これはなんかあるかもな。」という“解釈”(と呼ぶにはあまりにもファジーな例になってしまったが)があったりする。
決定できる先生は、この“解釈”を人任せにしない。人任せにしないために、しっかりと生徒と関わっている。関わっていないと、複雑な生徒の行動を解釈するための情報が足りないから。
おそらくこれは、教員に限ったことではない。
現代人には解釈しようという意志が乏しいように感じる。分からないことは、専門家に委託すればいい。専門家の意見に従うし、専門家が間違えれば「おい、専門家だろう」とクレームをつける以外の行動がとれない。正解がある前提でものごとを考えるし、それを知っている人がいると思っている。そして恐ろしいことに、“そんな現代人”になるためかのようなシステムがいまの世の中にはある。本当に危険だと思う。
確かにすべてを自分で賄うことは難しい。専門家と協力することも出てくる。
それでも、分からないこと、複雑なことから逃げてはならない。
複雑な状況に身を置くこと、その中できちんと己の“解釈”を持つこと、他者の“解釈”を受け入れること、心に留めておきたい。
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ここまで書いて、生徒につけようとしている力そのものだなと感じました。ウルトラ好意的に捉えれば、文部科学省が言いたいのはこういうこととも言えなくない。(言えないか)
そしていま点滴用の針を刺しました。
こんな小さな針なのに、私のテンションを下げるには十分なようです。