「教員の働き方の議論に感じる小さな違和感」
教員の残業代についての判決がちょびっとだけ話題になっています。
裁判にて「さすがに実情と合っていない現実があるんじゃないの」という指摘があったからです。
まず前提として、教員がハードワークであることや、それに見合ったお給料を頂けていない実情は確かにあります。
公務員がこういうことを言うと企業の方々にお叱りを受けそうですが、我々は営利目的の労働ではなく国家の維持や安心安全のために仕事をしていますから、その対価が乏しいということが何を招くのかは真剣に考えておかねばなりません。
「教員の働き方改革」の機運の中で、”余裕のない教員が行う教育の貧弱さ”が問題視されること(教員から余裕を奪うと教育の質が下がっちゃうぞ的な)がありますが、想定が甘いなといつも思います。
教員というのは、余裕がなく教育が貧弱になっていくことに耐えられない生き物です。「そこはある程度割り切らないといけない」なんて声が聞こえてきそうですが、ほんとにすべて割り切ったら、いろんな問題が表出するはずです。目に見えているから、少しずつ無理をしています。
話を戻します。
ですから、「教員の現状」に対する怒りが噴出することについては一定の必然性を感じます。
ですが一方で、この議論に小さな違和感を覚えることがあります。(ここは批判をいただきそうです・・・。「でもこういう状況の人もおるねんから」みたいなのは勘弁してください。それくらいは想定して書いています(;^_^A)
この仕事をしていると、
「あ、これは19時でも20時でも家庭訪問して親と対峙せなあかんわ」みたいなことが存在します。学校によればしょっちゅうある。
教員は、家庭状況や生徒との信頼関係、学習状況、教員集団の特徴等、いろ~んなことを、その状況の「中」に身を置いて考え、判断を行います。
そのなかで、生徒のいまと未来のために、勤務時間をオーバーする判断をすることがあるわけです。
一番主張したいのはここなんですが、そういう部分に対して「働き方改革」の介入って野暮な気がするんです。国側からも、教員側からも。私にとってそこは仕事人としてのプライドの領域に近い。(歪曲してほしくないのでくどいですが、親の介護で帰らないといけないとかは別ですよ)
もし国に「もっと早く帰れるように国が率先して環境を整えないとダメですね」と言われたら「いやいや、必要やと思ったから家庭訪問しとんねん。やかましわい。」ってなる。
教員のただの文句とか泣き言みたいな主張を見かけると、「自分の判断にプライド持とうぜ」ってなる。
国はもっと教員に敬意を払うべき。
教員はもっと誇りある主張をするべき。
そんな違和感が、う~っすらず~っと心にあります。