秀吉時代の米相場
鎌倉時代から室町時代にかけて中国から銭貨が輸入され、日本中に流通していきました。欠損銭や悪銭も多く、信長が主として永楽銭を用いることにし、選銭令を公布することで商買を円滑に行えるように銭の価値を一定にしました。
ところが秀吉の時代に中国からの永楽銭の輸入が絶えてまい、
米で納税させるようにしました。
全国的に田畑の検知をやり、石高を一定にして米で納税させるように
したのです。
大阪城築城
大阪城築城のための労役を西国・北陸諸国大名に課したことにより、
大阪に繰り込んだ人夫は日に2万人~3万人、あるいは5万人と
されています。
当時の大阪の推定人口は10万人、そこへ人夫が追加される。
食料事情が悪化させないように秀吉は淀屋に任せたようである。
淀屋の役割
淀屋は西国北陸諸大名の異なった品質の米が大阪に集中するため、品質分け・量の処理を担う。量の処理は秀吉が前田利家から加賀米10万俵を引いたために必要となる。
各地より米が集まり米の品質により価格分けされ、米相場と発展していくことになる。
後年、加賀米が堂島で幅をきかせたのは秀吉時代の事情をくむものかも知れないとされている。