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[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(9)

第三章(六)

 “青天の霹靂”というのはこういう状況なのだろうか。俺の頭の中は大混乱していた。
「疲れているところに、驚かせること言ってごめんなさいね」
 哲子さんが申し訳なさそうに言うので、俺は反射的に
「とんでもありません」
と答えてしまった。そして話を続けるよう促した。
 哲子さんは、父と自分たちの母親について話し始めた。
 父は朝鮮半島南部つまり韓国の農村で生まれた。貧しい小作人の家庭で、兄弟姉妹が多かったため、十代の初めに働き口を求めて日本に渡って行った。当時、朝鮮は“大日本帝国”の統治下にあったため、日本への渡航は敷居が低く感じられたようだ。日本に来た父は、商店の手伝いや肉体労働で金を稼ぐかたわら、夜学に通って将来に備えて勉強もした。当時の日本には、日本人、朝鮮人、台湾人を問わず、こうした少年たちが大勢いたそうだ。
 こうしたなかで、父は自分と似たような境遇の朝鮮人、日本人、台湾人の少年たちと親しくなり、共同生活をするようになった。
 日本の敗戦と共に朝鮮は日本の統治から解放されたけど、父は国に戻らず仲間たちと共に日本での暮らしを続けた。
 もともと故郷で食べて行かれなかったため日本に渡ってきたのだから、今さら帰ったところで経済的に受け入れてもらえる余裕などないだろう。これは父の仲間たちも同様だった。
戦後の混乱期の中で父は仲間たちと商売をして当てたそうだ。
「“ハヤシ食材”の歴史 はここから始まったわけね」
 哲子さんの話はここで一段落した。
「興味深い話ですね。父さ…いや社長から直接聞いたのですか?」
「ううん、父は自身のことは一切話さなかったわ。この話も父の側近の朴さんや蔡さんから聞いたの」
 確かに父は自分のことは、ほとんど話さなかったな…。
「次は、私たちの母について話すわね」
 哲子さんと哲生先生の母親である閔明順は父の実家が借りている農地の持ち主の娘だった。父にとっては主人宅のお嬢様ということになり気位が高く、我儘な面もあったそうだ。
 彼女の家は当時としては進歩的で女の子にも高等教育を受けさせていた。それゆえ、娘の言うままに内地日本への遊学も許したそうだ。
 東京に来た彼女は、朝鮮人学生の集まりに参加し、そこで知り合った男子学生と親しくなり半同棲生活をするようになった。だが、男子学生の方には既に配偶者がいたため、正式な結婚は難しかった。こうした例は当時よくあったらしい。幼いうちに親同士が勝手に決めた結婚相手に男子学生は愛情も何も感じていなかった。
 東京で暮らす二人は、戦中の困難な時期も力を合わせて乗り切ったらしい。
 やがて、日本は戦争に負け、祖国は解放されたのだが二人は東京に留まった。国に帰ったら別れなければならないためだ。
 二人の関係は結局、それぞれの親に知られて、当然、両家とも別れさせようとした。もちろん二人は別れなかった。
 その間、世の中は敗戦の混乱等で両家の‘離別工作’はなかなか進まなかった。二人は相変わらず共に暮らし、ついに子供まで儲けてしまった。
 しかし、結局、二人は別れてしまった。
 男子学生は国に帰って妻と暮らすことになり、子供は閔明順が引き取ることになった。未婚のまま子供を産んだ娘を実家に置くことを世間体もあって憚られた閔家は、取り敢えず娘を結婚させ、子供は養子に出すことを考えた。“訳あり”ゆえ、相手選びは難航した。そんななか、選ばれたのが小作人の息子の父だった。年齢的に釣り合い、人柄から経済力まで申し分なかった。何より自分たちの手の内にあるような人物だったのが好都合だった。
父は断れなかった。だが、これによって自身の親族たちにも恩恵が及ぶだろうと考えて割り切ったそうだ。
 結婚した二人は日本で暮らした。父は妻の連れ子も引き取った。
 本人の意思など無視して押し付けられた“身分の卑しい”配偶者に閔明順は好意など全く抱かなかった。そのため彼女は妻としてではなく主人家の人間として夫に接していた。そんな妻に対して父は気の毒に感じていたため、好きなようにさせていた。
 その後、朝鮮半島で戦争が起きると妻の愛人が戦乱を避けるという口実で妻子を連れて日本に舞い戻ってきた。再会した二人はすぐにかつての関係に戻った。愛人側も父夫婦と同じく“仮面夫婦”だったため彼の奥さんも仕方がないと思っていたようだ。
 祖国の戦争に対して在日同胞たちも、それぞれ思うところがあり、さまざまな活動を展開していた。父の本妻さんも愛人と共に民族団体で働いていた。父の方は故郷にいる親族のことを気遣いながらも民族団体などとは距離を置いて自分の仕事にのみ専念した。
 祖国の状況が一段落すると、本妻さんと愛人はそのまま民族団体の仕事を続け、父はそれを黙認し自身の仕事に邁進した。
 日本社会は敗戦から少しずつ立ち直りやがて高度成長時代を迎えた。父の商売も順調に進んでいった。
 表面上は全てが順風満帆で幸福そうに見えた父だが、実際は顔を合わすたびに高圧的な態度をする妻との生活に嫌気がさしていた。それでも彼女が言うままに民族団体~朝鮮総盟には資金援助をしていた。同胞たちのためになるのだからと自身を納得させながら。
 こうしたなかで出会ったのが、俺の母親だった。
 たまたま入った飲み屋の女将だった母親を気に入り、通っているうちに親しくなったそうだ。美人ではないが気さくでいつも笑顔の母は本妻さんとは正反対の女性だった。
「父はあなたのお母さんに出会って本当の家庭を得たのよ」
 俺は応える言葉が見つからず黙ったままだった。
「本来だったら、離婚はしなくてもあなたのお母さんと一緒に暮らしたって構わなかったのに、母と私たちの体面のために別居もしなかったのよね」
 相変わらず何も言わない俺に対して、哲子さんは微笑みながら話を続けた。
「実は哲男クンの顔を見るのは今回が初めてではないのよ」
 哲子さんが俺と母の存在を知ったのは学生時代のことだった。友人とデパートに行った時、俺と母と父が一緒にいたのを見たそうだ。
「父、いや社長にはよくデパートに連れて行ってもらい、いろんなものを買ってもらいました」
 ようやく俺は話すことが出来た。
「あの時の父は本当に楽しそうだったわ」
 哲子さんはすぐにこのことを哲生さんに話した。二人とも父を責める気など全くなく、ただ真相が知りたいと思い、父の側近の朴おじさんに聞いたそうだ。
 初めは話し渋っていたおじさんも哲子さんたちに説得された全てを話したそうだ。
「私たちね、それからこっそり哲男クンの様子を見に行ってたの。入学式や卒業式の時も陰から見ていたのよ…。本当に父によく似ていて、可愛かったわ」
「母は私が母親似だといって残念がっていました。父親似だったら美形だったのにと嘆いていました」
「そんなことないわ、あなたを見るたびに兄と、こんなによく似た子だもの父も目の中に入れても痛くないだろうなと言っていたのよ」
 哲子さんは俺の顔を見ながらにっこりした。
「だから、母があなたを北へ行かせると言った時、実の親ながら何て酷いことをするのだろうと思ったわ。父も今回ばかりは物凄く怒ったわ。私も兄も抗議したけど“本人が行くことに納得した”といって聞き入れなかった。口の上手い母が北の実情なんて全く知らないあなたを丸め込んだのでしょう」
「やはり妾の子の存在を許せなかったのでしょうか?」
 もしかすると本妻さんも少しは父に好意を抱いていたのではないかと聞いてみたが…。
「体面もあったのだろうけど、父の財産を一銭たりともあなたに渡したくなかったのでしょうね」
 俺は父の財産など興味はなかった。相続放棄しろと言われたら喜んで応じたのに…。
「あなたが北に入った後、父は絶対あなたを連れ戻すといって、その手段をいつも考えていたわ。そのためには全財産を注ぎ込んでも構わないとまで言っていたわ」

 その日のうちに退院した俺は、哲生医師が用意してくれたマンションに移った。俺はこれからここで生活するのだ。
 夜、哲生医師と哲子さんがマンションに来てくれた。全てが上手く行ったそうだ。視察団一行は日本での埋葬を認め、明後日に帰国するそうである。その間、東京で例の如く、飲ませ食わせ、楽しませ、買物までさせてやるそうだ。彼らは御機嫌で帰国することだろう。
 俺は改めて二人に、感謝の言葉を言って頭を下げた。北に行ってから今日に至るまでどれほどの金が俺のために費やされたことだろうか。
「…お金のことは気にしないでね。これは、みんな哲男くんのお金なんだから」
 俺は哲子さんの言葉の意味が分からなかった。これを察したかのように哲生医師が説明をしてくれた。
 母が亡くなり、俺が北に行った後、父は母がやっていた店「花ぐるま」を買い取り自身の会社の傘下に入れて新たに開店させたそうである。最強の経営陣とスタッフで運営された「花ぐるま」は成功し、年間の利益は大変なものだそうだ。
 俺は「花ぐるま」の大株主兼取締役の一人となって相応の収入を得る形になり、それを俺のために使っていたそうだ。
「平壌でも君は自分の金で暮らしていたんだよ」
 父は何から何まで気を使ってくれたんだ…。ありがたいことだ。
「…それにしても、もう少し早く、せめて父が生きている間に帰国させたかったわ。今わの際に間に合わなかったのが今も心残りで」
 哲子さんは悔しげに言った。
「父は本当にあなたを北に行かせたことを後悔していたわ。それは私たちも同じ…」
―私たちも同じって?
 疑問に思ったのが顔に出たのだろうか、哲子さんが、それに答えるように話を続けた。
「実は、私たちはあなたが子供の頃から知っているのよ」
 以前、哲生先生がまだ大学生の時、デパートで父と母と俺が一緒に買物をしている姿を見たそうである。
 哲生さんと哲子さんは、父に愛人がいることを薄々感づいていたそうだ。
 父と本妻さんはもともと折り合いが悪かったそうである。これほど気が合わないのに、どうして一緒になったのか不思議に思ったそうだ。
 父に対する不満を解消するように、本妻さんは総盟の活動に専念した。そのため、家事は全て家政婦さんに任せきりだったそうだ。加えて彼女は相当見栄っ張りらしかった。
 二人の子供を民族学校に入れられなかった彼女は代わりにセレブの子供たちが行く私立の学校に二人を通わせた。そして、そこの生徒たちがやっているような習い事をやらせ、家庭教師もつけた。お陰で二人は学校時代はずっと優等生だった。
 父にも哲生さん兄妹にも普通の家庭生活は無縁のものだった。
 それゆえ、父に別に家庭があったとしても既に成人になっていた哲生さん、哲子さんは腹も立たず、愛人とその息子を憎むこともなかった。
 それよりも二人は異母弟の存在に興味をもったそうだ。
 父の側近の一人である、俺もよく知っている山田さんを問い質して俺たち母子の居所を知り、時々、様子を見に来ていたらしい。
「よく、父とキャッチボールをしていただろう? 父は子供とキャッチボールをしたがっていたのでとても楽しそうな顔をしていたよ」
 哲生さんが口を挟む。
「高校の入学式の時だったかしら。学校の門の前で親子三人で写真を撮ってもらっていたでしょう。父はその時の写真を手帳に挟んでいたわ」
 二人は楽しそうに俺の子供時代の話をしてくれた。それを聞きながら俺は胸が熱くなった。
「…だから、母が君を北に行かせると行った時は驚くというより怒りが湧いてきたよ」
 哲生さんは再び口を開いた。
「いくら愛人の子で目障りだと言っても何もあんな場所にやる必要はないだろう」
 在日社会では既に北がとんでもないところであることは広く知られていた。そんな場所に可愛い異母弟を送ることは出来ない。
 父と哲生さん、哲子さんは本妻さんを説得したが無駄だった。そして、俺が向うに行ってからは、日々、俺のことを案じ、絶対に日本に連れ戻そうと思っていたそうだ。
 自分は何と良い家族を持ったのだろうか! 俺は二人にいくら感謝しても足りなかった。そして、俺は天涯孤独の身の上ではないのだと思ったのだった。
 俺の子供時代の話が一段落すると哲生さんが、次の用件を切り出した。
「さて、君はこれから何をしたい?」
 そうだ、俺は日本でこれから生きていくのだ。
 大学を出てすぐに北に渡った俺は日本社会で働いた経験は皆無だった。北でしてきた仕事などこの日本では何の役にも立たないだろう。さあ、どうすべきか…。
「まあ、ゆっくりと考えればいい。まだ、日本に帰って間もないことだし。経済的なことは心配しなくても大丈夫だよ」
「そうよ、焦る必要はないわ。哲男くんの人生なんだから、あなたが納得出来ることをすればいいのよ」
 戸惑っている俺に二人は優しく言ってくれた。
 だが、いつまでも二人に頼ってばかりもいられないだろう。出来るだけ早く自立してこれ以上、二人に負担を掛けないようにしなくては。
 俺は新たな人生を歩む決意をしたのだった。



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