[小説]愛しき名前～ある特定失踪者少女の運命 （12）

第四章(一)

　連休中でもないだろうに仁川国際空港は多くの日本人でごった返していた。いわゆる韓流のせいか女性それも中高年が多かった。
　国家安全院の職員たちはその中の一人をずっとマークしていた。その女性が入国審査場の待機列に並ぼうとしたところで職員の一人が日本語で声を掛けた。
｢榎本みずきさんですね」
　女性が頷くと
｢ご同行願います」
　丁寧だが有無を言わせない口調にみずきは黙って従った。
　人通りがほとんど無い廊下を抜けて外に出た一行四人は停まっていた乗用車に乗り込んだ。
　車が走り出して暫くすると隣に座った男性職員が韓国語で話しかけた。
｢あなたはキムヒソンですね」
｢ネー。クロナ、私の本当の名はキダセイカです。日本人です。チョヌン イルボンサラム キダセイカムニダ」
　韓国語と日本語が混ざった返事を聞いて車内の韓国人たちは一様に驚きの声を上げた。そして次の言葉が見つからない職員たちは、その後は何も言わず、星香も何も言わなかった。沈黙は破られること無く車は国家安全院に到着した。
　取調室に連れて行かれた星香は、先程、隣にいた職員から訊問された。室内には他に女性職員一人が立会いとしていた。
「あなたは韓国語も堪能なようなので、ここでは韓国語を使うが宜しいですか」
「はい」
　こうして韓国語によって訊問は始まった。
｢あなたの名前を教えて下さい」
｢輝田星香＜キダセイカ＞と申します」
　職員の温和な口調の問い掛けに星香は淡々と答えていった。
　国籍、出身地、拉致されて北朝鮮に行くまでの経緯、北での生活、工作員として活動等々……。
　自分たちが追っていた北朝鮮工作員・金輝星は日本人特定失踪者・輝田星香だったのである。
「北は、他国からさらって来た少女を工作員にして使っていたのか！」
　取調べを担当した安全院職員たちは北の工作活動が予想以上に多様化していることに改めて感心すると同時に恐ろしさを感じた。金輝星という工作員が韓国人、日本人、中国人等々に偽装して活動をしている事実は掴んでいた。だが、彼女が女優だったこと、そして日本人拉致被害者だったことは思っても見なかったことだ。
　職員たちは、特定失踪者・輝田星香が見つかったことを日本側に伝えるべきか考えた。通常ならば、すぐに教えただろう。しかし、今回、金輝星が偽造パスポートで韓国入りしようとしていると知らせて来たのは日本だった。先方は全てを承知の上で我が大韓民国に託した、いや丸投げしたのだろうか。
　数日間、安全院で取調べ等々を行なった後、彼女は安全院の監視の下、ソウル市内のマンションで暮らすことになった。本来ならば、刑を確定して服役させられるところだろうが、星香のことを表沙汰にすればことが外交問題まで発展して複雑化する可能性がある。それゆえ、このような措置が取られたのであった。
　安全院職員に連れて行かれたマンションの一室で彼女を出迎えてくれたのは予想外の人物だった。
「久し振りね、五十鈴ちゃん」
「ママさん！」
　かつて平壌で共に暮らした拉致被害者のママさんこと八田繁子だった。彼女の本名を知ったのは北を出て工作活動のため日本に来た時だった。
｢彼女を宜しく頼む」
｢分かりました」
職員は繁子に星香を託すと出て行った。
｢さあ入って。今日から又昔みたいに一緒に暮らすのよ」
　繁子は星香をリビングルームに連れて行った。そしてコーヒーを二人分いれてテーブルについた。
｢ここは何でも簡単に手に入っていいわ」
コーヒーカップの一つを星香の前に置きながら言った。平壌ではコーヒーは手軽に飲めなかった。生活用品は全て支給され、自分で買いに行く必要はないが、選ぶことは出来なかった。全て与えられるものだけを使っていた。それでも、あの国では恵まれた待遇だった。一般庶民は必要なものを必要なだけ入手することさえ出来ないのだから。二人がこの事実を知ったのは北を出てからだった。
　コーヒーを一口飲んだ後、繁子が口を開いた。
｢五十鈴ちゃんは全く変わらないわね」
　既に本名を知っているはずなのに、彼女は星香を五十鈴ちゃんと呼んだ。
｢ママさんも」
　星香も同様だった。
「こうして、また会えるなんて夢みたいね」
　繁子が感慨に言うと
｢本当に」
　星香も応じた。こうして、二人はその間の互いの身の上について話し始めた。
　繁子は、星香が中央芸術団に“スカウト”された後、暫くの間、東大生さん～荷田勲たちと暮らしていたが、その後は彼らと別れ工作予備員たちに日本語及び日本の習慣を教えていた。そして、彼女自身も南派工作員にされ、韓国に送られるようになった。これは繁子にとって願ってもないチャンスだった。とにかく北から外に出れば、逃げられる機会が得られると思ったからである。北にいる間、彼女は日本に戻ることを諦めなかった。いつかは絶対に帰るんだと思い続けていたのだった。
　ソウル入りした彼女は、すぐに警察に自首をした。だが、日本には戻れなかった…。
｢あの国から出れば帰れると思っていたんだけど…」
　繁子はやるせない表情を浮かべた。
　北朝鮮とは異なり、韓国と日本の間には国交がある。日本国民の繁子が日本に戻れないことは無いはずなのだが。
｢…よく分からないけど、私は帰ってはいけないみたいね」
　繁子は悲しげな笑みを浮かべるのだった。