[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(10)
第三章(七)
午前中に退院した俺は哲子さんに連れられて、新居となるマンションに行った。
哲子さんに案内された部屋は広く、家財道具が全て整えられていた。
「仕事があるので、これで戻るわね。夕方、哲生兄さんとまた来るわ」
こう言って哲子さんは部屋を出て行った。
一人残った俺は、取り敢えず、窓を開けて外を見た。高層階の部屋のせいか見晴らしがよかった。
そしてテレビをつけてみた。日本語の番組を見るのは久しぶりだった。画面に登場する人物も内容も馴染みのないものだったが、自分が確かに日本にいることを実感させられた。
父は俺を日本に絶対に連れ戻すと言い続けていた。そして俺はその言葉を無意識のうちに信じていた。だから、かの国でも呑気に暮らせたのかも知れない。後日知ったのだが、他の帰国者たちは貧しい生活となれない環境のもと日本にも戻れないという絶望的な状況の中で日々を送っていたそうだ。
俺は改めて父に感謝するのだった。
テレビは今の日本を映してくれた。俺は哲子さんが用意してくれた昼食用の弁当を食べながら画面を見続けていた。
いつしか夕方になり、玄関のチャイムがなった。
哲子さんと哲生先生が来たのだろう、俺はドアを開けた。
「哲男くん、無事に帰ってきたんだね」
「よかった、よかった」
哲生兄妹を押しのけるようにして三人の初老の男性たちが俺に抱き着いてきた。
「朴おじさん、蔡おじさん、山田のおじさん……」
父の最側近で“義兄弟”の人々だった。
「皆さん、中に入って。話はそれからにしましょう」
哲子さんに促されて一同は部屋に入って行った。
俺はテレビを消した。皆、部屋の中で自然に車座になった。
「皆さんのお蔭で全てうまくいきました」
哲生先生がまず切り出した。
視察団一行は日本での埋葬を認め、明後日に帰国するそうである。その間、東京で例の如く、飲ませ食わせ、楽しませ、買物までさせてやるそうだ。彼らは御機嫌で帰国することだろう。
「それはよかった」
おじさんたちは我が事のように喜んだ。
「残念なのは兄貴、いや社長が生きているうちに哲男くんを連れ戻せなかったことだね」
「そうだな」
父は最後の最後まで俺のことを気にしていた。そして、哲生先生兄妹と義兄弟たちに、俺のことを託して息を引き取ったそうだ。
俺は知らぬ間に涙を流していた。自分のために父や哲生先生たちがこんなにも力を尽くしてくれたのだ。有り難く、感謝してもしきれないだろう。
「そんなに気にすることではないわ」
哲子さんが優しく言った。
「生前、父は全財産を三等分して私たち兄妹と哲男くんに分けてくれたの。自分が亡き後、あなたの分の遺産を使って、あなたを北から連れ戻し、その後の面倒をみてくれと頼まれたのよ」
「だけど私たちは相続を放棄したんだ、当然のことだけどね」
哲生先生が言葉を継いだ。
「私たちは父の遺産を全て使ってでも君を日本に連れて来ようと誓ったんだ。これは父に対する恩返しでもあるんだ。父は最後まで私たちを実の子供として慈しんでくれたのだから」
二人はなんて良い人々なのだろうか、俺は何度も何度も礼を言った。
「さて、皆でこうして集まったのも久しぶりだ。哲男くんの前途を祝して美味い物でも食べに行こうじゃないか」
朴おじさんの提案に一同は賛成した。そしてマンションから少し離れた駅近くの日本料理店へ行った。
運よく個室が空いていたので、そこで食事をしながら様々なことを語り合った。
話題は亡き父のことが中心となり、父と義兄弟三人の出会いや三国志演義をまねて「桃園」という食堂で義兄弟の誓いをしたなど、これまで知らなかった父の一面を知ることが出来て、とても楽しい時間を過ごせた。
母を亡くした時、“愛人の子”である自分は天涯孤独の身の上になってしまったと思ったが、今は違った。自分には、血の繋がりは無くても自分のことを思ってくれる人がこんなに大勢いる、今、そのことを実感し、このようにしてくれた父に改めて感謝したのだった。
翌日の昼頃、哲子さんが俺の部屋に来た。今回は旦那さんと一緒である。彼は山田のおじさんの息子さんだそうだ。
部屋に入り、哲子さんたちが持ってきてくれた昼食を共に食べた後、山田さんが“頼みがあるのだが”と言った。
哲子さんや山田のおじさんには返しきれない恩があるので、どのようなことだろうが聞くつもりだったが……。
「私の代わりに“花ぐるま”の社長になってほしい」
“花ぐるま”はハヤシ食材(株)傘下の飲食店の一つである。
「社長…ですか」
とっさに「はい」とは答えられることではなかった。
「本当はハヤシ食材グループの代表取締役になってほしいのだけど。ハヤシ食材グループの株の大半はあなたの名義になっていることだし」
哲子さんは言葉を続けた。
「だけど、いきなりグループの総帥になれって言われても困ることでしょうし、まずはあなたのお母さんの店だった“花ぐるま”の社長をして、いずれは私に代わってグループのトップになればいいんじゃないかと思って」
“花ぐるま”は確かに俺の母親がやっていた店だ。俺が北に行った後、父は店を改装して法人化して、自身の会社の系列に加えた。和風居酒屋として新規開店し、今は支店もある。
「会社の経営なんて、とても出来そうにありません」
いわゆるビジネスとは距離のある世界にしかいたことのない俺に社長業などとても無理だ。
「だいじょうぶだよ、単なる料理人だった俺だって何とか務められたんだから」
不安がる俺に山田さんが掛けた。哲子さんも
「そうよ、お店の日々の業務は店長さんがやってくれるし、営業、経理、その他も優秀なスタッフ揃いだから哲男くんは何の心配もないわ」
と付け加えた。
「それに…」
哲子さんは一息入れて続けた。
「口には出さなかったけど、父は哲男くんに会社を継がせたかったみたいなの。どうか父の意志を受け入れてちょうだい」
恩のある哲子さんにここまで言われては断れなかった。
「分かりました。とにかく頑張ってみます」
「よかった。私たちも協力するからね」
俺の答えに哲子さんたちは大喜びした。
こうして俺は“社長”となり、ハヤシ食材(株)の経営陣の一員となった。
父の後を継ぐことを決意した俺は、哲子さん夫婦や義兄弟のおじさんたちに助けられながら、会社の仕事に力を注いだ。
忙しい日々を送っていたが、その間に結婚し、昔の友人たちとも再会し、付き合いを再開した。
結婚相手は山田さんの妹で、夫と死別し娘が一人いた。俺の家に家政婦代わりに来てくれたのだが、次第に親しくなって共に暮らすようになったのだった。父と同じように子持ち女性と一緒になるとは、我ながら運命の不思議さを感じた。その後、男の子も生まれ、一家四人のごく普通な日本の家庭の父親となった。
仕事にも家庭にも恵まれ、俺は本当に幸せだった。こうした中で北朝鮮での生活も遠い過去の出来事となり、記憶の中からも消えつつあった。
世の中は世紀末ということで、何かとごたごたしたが無事に21世紀を迎えられた。そして間もなく、日本社会を引っ繰り返す出来事が起こった。
北朝鮮が日本人を拉致したことを認め、その被害者たちが帰国したのである。
北が“人さらい”をしているらしいという話はかなり前からあったが、関心を持つ人はほとんどいなかった。俺自身も半信半疑だったので、まさか本当にやっていたとは思わなかった。
このニュースを聴いた時、俺の脳裏には金輝星の面影が浮かび上がった。 そうした折、TVを見ていたところ、画面に金輝星が出てきたのである。
演劇界の重鎮・蒜田監督と妻の女優蒜田はるこ女史が、うちの子も拉致されたに違いないと言って娘の写真を持って情報番組に登場したのである。
俺は娘の顔を注視した。制服姿で長い髪を垂らした女子高生は間違いなく金輝星だった。
娘の名前は輝田星香<きだせいか>といい、ストーカーに家族全員を惨殺されたそうである。
一人ぼっちになった星香を気の毒に思った蒜田監督は、彼女が自身が顧問をしていた高校の演劇部員だったこともあり養女にしたそうだ。
俺は父が以前言っていた言葉を思い出した。
「北陸で臨海学校に来ていた舞台監督と女優の娘が行方不明になった」、
またウォーリー=ラウの妻・マリコ夫人の言葉も脳裏を掠めた。
「日本人としか思えないのよね」。
そして、37号室勤務の時、日本の訪問団の前で歌い終えた時、涙を流していた彼女の姿…。
家族を失い、新たに得た家族からも引き離され、見ず知らずの土地に一人放り込まれた金輝星こと輝田星香はどれほど心細く、辛かっただろう。
時々、ほんの一瞬みせたあの切なげな表情こそ、彼女の真の姿だったのだ。
この時、俺は初めて北に対する激しい怒りが沸き上がった。
と同時に可笑しさもこみ上げた。
北朝鮮の人々が愛し、絶賛したのは、皮肉なことに、彼らの当局が忌み嫌い、憎悪の対象とした日本人娘だったのだ。
これが喜劇でなくて何であろう。
俺は蒜田監督夫妻に金輝星のことを伝えようか迷ったが、結局、知らせなかった。
俺が知らせたところで意味がないように思えたからだ。俺の知っているのは十年以上前のことで、今、彼女がどうなっているのは知らない。それでは何の役にも立たないだろう。
と同時に、これ以上、哲生先生や哲子さん、その他関係者たちに迷惑が掛かるようなことは控えようと思った。また、妻や子供たちを余計なことに巻き込みたくもなかった。
それから更に数年経ったある日、新聞の片隅に「身元不明の水死体、特定失踪者・輝田星香さんと判明」という記事が載った。
金輝星が死んだ?! 何の根拠も無いが有り得ないと思った。
不幸なままで人生を終えるなんてあまりにも酷ではないか!
これまで彼女は何度も人々の前から姿を消した。北陸の海岸から、北朝鮮の人々の前から、そして37号室の舞台から。でも彼女は生きていた。
今回も彼女はこの世界のどこかにいるはずだ。そして、今は自身の手で過酷な運命を変えようとしている。
俺にはそう思えるのである。
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