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【編集者が語るこの叢書・このシリーズ】世界を読み解く一冊の本

「書物は一つの宇宙である。世界は一冊の書物である」をキーワードに、『大槻文彦『言海』』から刊行が開始された<世界を読み解く一冊の本>シリーズ。

完結を記念し、本シリーズを手掛けた編集者の一人が「人文会ニュース 141号」に文章を寄せました。

シリーズ立ち上げに際して意識したコンセプトや制作過程を紹介しています。

全文を公開しますので、ぜひご一読ください。

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編集者が語るこの叢書・このシリーズ24
世界を読み解く一冊の本

   
上村和馬(慶應義塾大学出版会)

「ある書物がよい書物であるか、そうでないかを判断するために、普通わたしたちがやっていることは誰でも類似している。じぶんが比較的得意な項目、じぶんが体験などを綜合してよく考えたこと、あるいは切実に思い患っていること、などについて、その書物がどう書いているかを、拾って読んでみればよい。よい書物であれば、きっとそういうことについて、よい記述がしてあるから、だいたいその個処で、書物の全体を占ってもそれほど見当が外れることはない。
 だが、じぶんの知識にも、体験にも、まったくかかわりのない書物にゆきあたったときは、どう判断すればよいのだろうか。
 それは、たぶん、書物にふくまれている世界によってきめられる。優れた書物には、どんな分野のものであっても小さな世界がある。その世界は書き手のもっている世界の縮尺のようなものである。この縮尺には書き手が通り過ぎてきた〈山〉や〈谷〉や、宿泊した〈土地〉や、出遭った人や、思い患った痕跡などが、すべて豆粒のように小さくなって籠められている。どんな拡大鏡にかけても、この〈山〉や〈谷〉や〈土地〉や〈人〉は、眼に視えないかも知れない。
 そう、じじつそれは視えない。視えない世界が含まれているかどうかを、どうやって知ることができるのだろう(注1)?」

―吉本隆明『なにに向って読むのか』

 編集者は原稿と向き合う。原稿やゲラと向き合うときは、言葉の連なりと向き合っているので、そのテクストが何を問い、どう分析し、いかなる回答を導き出そうとしているのかに意識を集中させる。読者の意識に何を投擲するのか、書き手と侃侃諤諤やりとりする。
 やがて、そのテクストの連なりに名を与える。
 その一方で、どんな本文紙を使い、どのくらいの束幅や重さや手触りにして、装幀家にどんな意匠を施してもらい、いかなる顔を持たせるか、頭を悩ます。姿かたちが頭の中にはっきりと輪郭を描いて浮かび上がるころ、責了を迎え、ゲラを手放す。
 印刷や製本のプロセスは赤子が産まれるのを待つ親の心境に近い。
 そして、見本出来の日。はじめて出逢う本は、あきらかにゲラのときの言葉の連なりとは異なっている。ゲラと本とのあいだには、あきらかに深淵なる跳躍がある。そこにあるのは、質量と身体を持つ、本という命そのものだ。まっさらな見本は赤子さながら。読み尽くされた古本は年老いた老人さながら。ルリユールを本のお医者さんと呼んだりするが、本という存在に命を感じるからだろう。矯めつ眇めつ、命を感じるこの本は、この先、どんな読み手と出逢って、どんなふうに読まれ、育っていくのか。夢想したりする。
 そのように本を造り、わが子を送り出すように、世に送り出すことを幾度も重ねていくと、ふと、本って一体何なのだろうと素朴な疑問が湧いてくる。
 書物論を紐解けば、曰く、記憶装置の成れの果てだ、曰く、思想と情報を運ぶ器だ、それはそうだろう。頭では理解できるが、すんなりと腑に落ちないところもある。
 そういえば、ボルヘスがこんなことを言っていた。
「そもそも書物とは何でしょうか? 書物は、物理的なモノであふれた世界における、やはり物理的なモノです。生命なき記号の集合体なのです。ところがそこへ、まともな読み手が現われる。すると言葉たち―言葉たち自体は単なる記号ですから、むしろ、それら言葉の陰に潜んでいた詩―は息を吹き返して、われわれは世界の甦りに立ち会うことになるわけです(注2) 。」
なるほど。読者を得た本だけが本足りうる。本は読まれることではじめて本になる。
 エーコはこんなことを言っている。
「本が読書の媒体として残ってゆくか、もしくは、本が印刷技術の発明以前においてさえ担っていた、そして担いつづけてきた役割を担う、本とは似て非なる何かが登場するか。物としての本のバリエーションは、機能の点でも、構造の点でも、五百年前となんら変わっていません。本は、スプーンやハンマー、鋏と同じようなものです。一度発明したら、それ以上うまく作りようがない。スプーンを今あるスプーンよりよいものにするなんて不
可能でしょう(注3) 。」
 読書の媒体としては究極の発明品で、これ以上のものなんてありえない、と。なるほど、それもよくわかる。本の機能としての側面はよくわかる。わかるけれども、やはり本とは何か、という問いに直接的に答えてはいない気がしているときに、冒頭に掲げた吉本隆明の一文に出逢った。
「優れた書物には、どんな分野のものであっても小さな世界がある。」
 この一文が自分にとっては最も腑に落ちるものだった。

「世界を読み解く一冊の本」シリーズを立ち上げたのは、先に挙げたような意識が背景にあったことも一因だ。ボルヘスもエーコも真理を突いていそうだが、衒学的で簡単に足元を掬われかねない。
「優れた書物には、どんな分野のものであっても小さな世界がある」という吉本隆明の言葉が頭の中で谺している頃、「書物は一つの宇宙である。世界は一冊の書物である」という一文に出逢った。これは、松田隆美先生が編まれた『世界を読み解く一冊の本』という論集の冒頭にある言葉で、その後、本シリーズのキーワードとなる一文だった。人類は、世界の真理を収めるような器としての書物を多数生み出し、時代や文化の違いを超えて脈々と読み継いできたが、そのような本の世界に耽溺して、一冊一冊を深く読み、味わい尽くす、そんなシリーズを造りたい。やがて、編集部内でシリーズ企画開発のチームが立ち上がり、松田先生にはシリーズ・アドバイザーに就いていただいた。
 全十巻の選書にあたっては、本シリーズでは特に、〈世界〉を規定し、人々の生き方を示す宗教書や、言葉を整理し〈世界〉の見方を示す辞典、〈世界〉を知の迷宮へと誘う奇書、〈世界〉を拡張させる巡礼の書、知へのアクセスを制限し〈世界〉を限定する焚書など、世界の名著のなかでも、とりわけ「本について問題提起をする本」をテーマとした。〈世界〉という視角に徹底的に執着した。
 そうして選ばれたのが、『旧約聖書』や『クルアーン』『空海『三教指帰』』、『百科全書』や『大槻文彦『言海』』、『西遊記』に『チョーサー『カンタベリー物語』』、『ボルヘス『伝奇集』』、『エーコ『薔薇の名前』』、そして『オーウェル『一九八四年』』だ。これら古今東西の古典・新古典を、書物史、文学研究、思想史、文化史などの第一人者に、縦横無尽に読み解いてもらうこととした。
 その際、特に大事にしたのが、その作品世界と社会や人間に向けられた眼差しをわかりやすく解説するだけでなく、そもそもその書物がいかにして誕生し、読者の手に渡り、時代を超えて読み継がれていったのか、翻訳されて異文化にも受け入れられていったのかを書物文化史の視点から考えるという点だった。
 読者を得た本だけが本足りうる。
 読書の媒体としては、書物は究極の発明品である。その点を重視したのは確かである。
 書物の魅力を多角的に捉えることで、その書物がいかにして〈世界を読み解く一冊の本〉としての位置を文化のなかに与えられるに至ったのかを、書物を愛するすべての読者に向かって、深く丁寧に掘り下げることを大切にしたい。そのことを執筆者にお願いした。

 装幀は、書籍・パンフレット・フライヤー・ポスター等の印刷物をはじめ、CI/VI制作(ロゴ、シンボルなど)を数多く手がけ、タイポグラフィや文字を軸にしたデザインワークを得意とするグラフィック・デザイナーの岡部正裕さんにお願いした。
 岡部さんには、先述したようなコンセプトを伝え、書店店頭でのシリーズとしての展開やウェブ上でのアイキャッチなどについて特に重視したい旨、お伝えした。
 仕上がった装幀は、書名の一文字を大きくあしらい、ビビッドな二色で彩ったデザインが本シリーズの代名詞的な役割を果たすものになったと思う。


 幾多の苦難を乗り越え、天竺への取経を目指す物語『西遊記』でいえば、実は「西」の文字に「道」のイメージが重ねられているし、虎や無限、円環や迷宮、永遠や夢といったテーマをめぐる探究を読者に誘いかける『伝奇集』では、「奇」の文字に虎のイメージを重ねるといった趣向を凝らしたデザインになっている。


『西遊記』
『伝奇集』

 一冊単体でもビビッドな装幀に目を引かれるが、全十巻の面陳は圧巻である。ぜひ、書店店頭で手に取っていただきたいが、本シリーズのデザイン・コンセプトについては、岡部正裕さんへのインタビュー動画を弊社note記事に掲載しているので、ぜひそちらもご覧いただきたい。

 デザイナーの中尾悠さんにデザインしていただいた「せかよむ★キャット」もお気に入り。シリーズの案内役で、古今東西の本をよみあさる愛書猫だ。帯やしおりや著者紹介欄に気まぐれに登場し、読書の森へ私たちを誘う。

せかよむ★キャット

 このように造りはじめたシリーズは先頃、『空海『三教指帰』』『オーウェル『一九八四年』』の同時刊行をもって、ようやく完結を迎えた。企画当初のコンセプトがきちんと反映されているかどうかは読者の判断に委ねたい。
 だが、本シリーズで取り上げた原書の一冊一冊に、あるいは本シリーズの一冊一冊にも、「小さな世界」があることだけは確かだ。「小さな世界」とは何か。実は、冒頭に掲げた吉本隆明の文章には続きがある。少し長くなるがそれを引用して、筆を擱きたい。

「もし、ひとつの書物を読んで、読み手を引きずり、また休ませ、立ちどまって空想させ、また考え込ませ、ようするにここは文字のひと続きのようにみえても、じつは広場みたいなところだな、と感じさせるものがあったら、それは小さな世界だと考えてよいのではないか。
 この小さな世界は、知識にも体験にも理念にもかかわりがない。書き手がいく度も反復して立ちどまり、また戻り、また歩きだし、そして思い患った場所なのだ。かれは、そういう小さな世界をつくり出すために、長い年月を棒にふった。棒にふるだけの価値があるかどうかもわからずに、どうしようもなく棒にふってしまった。そこには書き手以外の人の影も、隣人もいなかった。また、どういう道もついていなかった。行きつ戻りつしたために、そこだけが踏み固められて広場のようになってしまった。
 じっさいは広場というようなものではなく、ただの踏み溜りでしかないほど小さな場所で、そこからさきに道がついているわけでもない。たぶん、書き手ひとりがやっと腰を下ろせるくらいの小さな場所にしかすぎない。けれどそれは世界なのだ。そういう場所に行き当った読み手は、ひとつひとつの言葉、何行かの文章にわからないところがあっても、書き手をつかまえたことになるのだ。」

―吉本隆明『なにに向って読むのか』


1 吉本隆明「なにに向って読むのか」『読書の方法――なにを、どう読むか』(光文社、2001年)10頁。
2 J・L・ボルヘス「1 詩という謎」『詩という仕事について』(鼓直訳、岩波文庫、2011年)10頁。
3 ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(工藤妙子訳、CCCメディアハウス、2010年)24頁。

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