見出し画像

 みなさん、こんにちは。松尾から引き継ぎました森内です。朝の冷え込みは弱まり、日中は半袖でも十分な日も出てきて春を感じています。そして、桜も見頃を迎え始めました。桜を見ると自分はいつもこの和歌を思い出します。
「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」
いい歌ですよね。桜の美しさや儚さがうまく表現されています。自分も、杉の木がなかったら春をのどかに過ごせたのになぁとしみじみと思います(急に低レベル)。

 もう一つ、桜といえば忘れてはならないのが桜花賞ですね。小野さんイチ推し?のステルナティーアちゃんは色々と大丈夫なのでしょうか。ちなみに自分のイチ推しはアネゴハダです。名前がもう勝利を呼んでいます。

 さて、ウォーミングアップも済んだところで本題に入っていきましょう。今回は現実と向き合うことについて書いていこうと思います。それでは本日のお品書きです。

無気力少年

 ある日、突然無気力になりました。箱根駅伝に出たい。そう思いこのチームに入ったのはいいものの、実力不足でチームには全く貢献できない、趣味も考え方も違いすぎて周りのテンションについていけない。がんばったところで自分は何か還元できるのだろうか?そもそも、箱根駅伝を目指して何になるのだろか?そんなことをグルグル考えていたら何もする気が起きなくなりました。

 無理やり行動を起こしても気持ちがついてきません。料理、勉強、走り。何をしても心ここにあらずです。生まれて初めてテストで時間が余っているのに空欄で提出しました。心がからっぽで、抜け殻状態でした。何をやっても身が入らず、このまま命尽きていくのかなぁなんてぼんやりと思いながら無機質な日々を過ごしていました。そんな時にある本と出会いました。

All For One

 それは近藤史恵さん著の『サクリファイス』という本でした。この本はサイクルロードレースを題材に書かれた本です。サイクルロードレースとは読んで字のごとく自転車レースのことですね。サイクルロードレースは1チーム複数人で走ってタイムを競うものです。箱根駅伝の予選会にとても似ていますね。しかし、予選会とは決定的な違いがあります。

 それは、チームの合計タイムではなく個人のタイムを競うということです。各チームにエースと呼ばれる選手が1人いて(1人も居なかったり、複数人居たりすることもあるけどネ)、他の選手(アシスト)はエースがより良い順位を獲れるようにアシストをします。アシストの仕事はエースの前を走って空気抵抗を減らしたり、補給食を運んだり、エースのバイクにトラブルがあった際に自分のバイクを差し出したりと多岐にわたります。彼らは自分のリザルトは一切顧みず、ただエースのために走ります。エースがどんなに良い結果を収めようとも自分が表彰されることはないのに、、、です。

 では、なぜ彼らはそこまでして尽くすのでしょうか?それはエースの勝利を自らの“勝利”として同一化しているからです。エースが勝利することで、自らのアシストとしての価値を証明することができる。そうすることで、勝利の誇りを手に入れたり、より良い条件の契約を勝ち取ったりすることができる。アシストは自らの夢、希望、生活、すべてをエースに託して戦うのです。そして、エースはチームの全てを背負って戦う。

 この本では託す側の、託される側の想いや使命が心を抉るような形で描かれていてとても面白かったです。紹介がヒドすぎますね。でも読めばわかるんです。メディアにもありますし、言っていただければお貸ししますので是非読んでみてください。

 この本を読んで、ちょっと変かもしれませんが
エース→慶應長距離ブロック
アシスト→チームのメンバー

と置き換えることもできるのではないかと思いました。慶應が箱根駅伝に出るために自分の全てを懸けて戦う。アシストの仕方はただタイムを出すことだけじゃない。雰囲気づくり、データ収集、アドバイス、相談に乗る、いくらでもあります。自分に出来ることを最大限チームに還元して、このチームで箱根駅伝に出ることができれば自分の価値を証明することができるのではないか?そう考えると生きる気力が湧いてきました。これからは自分の特長を生かしてチームに貢献し頑張りたいと思います。

 と、ここで終わればハッピーエンドなのかもしれませんが、まだまだ続きます。というかここからが肝です。長くてごめんなさいね。少し休憩して次に進んでください。

人生の“勝利”

 この『サクリファイス』シリーズの『サヴァイヴ』という本の巻末に、ロードレース解説者の栗村修さんによって、こんな解説が書かれていました。


『人生とは、信仰し、行動し、喜び、悩み、悲しみ、そして解決できない矛盾との戦いを永遠と繰り返すものだ(中略)そんななかで、唯一、前に進み続けるために有効な解決策は、現実を受け入れ、僅かな希望の光を見付けて立ち上がり続けること。本当の意味での、答えやゴール、勝利などない。ただ、立ち上がり続けることが勝利することなのだ』


 この言葉いかがでしょうか?自分にはずっしり重くのしかかりました。この言葉に対する想いを上手くまとめようとしましたが、自分の能力では難しかったのでその日書いた日記をそのまま載せます。その方が、想いが届きそうですしね。

 先輩方が作った光を大きくして花開かせる。花開くのは自分たちの世代ではないかもしれない。ただ可能性がある限り、立ち上がり挑み続ける。それは勝つことよりも難しいかもしれない。しかし、それが人生における“勝利”なのかもしれないし、そうやって本気で挑み続けることで襷を次の世代に繋ぐことができるのだと思う。苦しくても前を向いて挑み続けよう。あと3年がんばる。


 どうでしょうか?なんかいいこと書いてますね。自分でも読み返してみるとちょっと感動します。このまとまりの無いブログを書いている人と同一人物が書いたとは思えませんね。それはともかく、要約すると、苦しくても現実を受け止め、箱根駅伝出場に向けて頑張ろうってことですね。
 これを読んでから自分なりに、自分の、そしてチームの“現実”と真正面から向き合ってみました。ここまで自分の想定していた倍の分量で来てしまっているので、個人の話はここでは割愛させていただいて、我々が向き合うべきチームの“現実”についてつらつらと書いていこうと思います。かなりキツいことを書くので、受け止める心の準備をしてから次に進んでください。

向き合うべき“現実”

 自分なりにチームの“現実”について考えてみたら、いろいろと思い浮かんできました。高い競技力と強力なリーダーシップを持った4年生がいなくなった、怪我人が多い、そもそも部員数が少ない等々、いっぱい挙げられました。それらの全てが事実ではありました。

 しかし、何か違う。そう思いました。そして、考えて考え抜いた結果、我々がまず向き合うべき“現実”はもっと本質的なものであると気が付きました。

 それは、このチームの雰囲気が箱根駅伝を本気で目指すチームのものではないということです。そう気付いたのはいいものの確証は持てなかったので、色々な人に密かにチームの雰囲気について尋ねてみました。返ってきたのは、

「良くない」

「このままじゃダメ」

「終わってる」

 否定的なものばかりでした。みなさんは、チームの雰囲気についてどう思いますか?少なからず物足りないと感じていると思います。やはり、チームの雰囲気は箱根駅伝を本気で目指すチームとしては不十分と言えるでしょう。

 雰囲気というのは、競技力に大きな影響を及ぼす重要な要素です。なぜなら、雰囲気というのは、そのチームの当たり前から構成される(と自分は思う)からです。就寝、起床時間といった生活面、jogの量、補強の回数といった競技面、声出しやミーティングの回数といった精神面、あらゆる要素の当たり前が、雰囲気という、言われてみれば理解できるけど実態はよくわからないものを構成しているのです。

 つまり、当たり前のレベルが低いからチームの雰囲気が悪いと感じるわけですね。この当たり前は、競技に対して大きな影響を与えます。そりゃあそうですよね。ベースのjogや補強の量が変われば競技力が変わるなんて自明です。みなさんも、当たり前の大切さを感じたことはきっとあるでしょう。自分も中2のある事件をきっかけに、テスト前は勉強するという当たり前を習得した結果、成績が意味の分からないほど伸びて、その重要性を痛感しました。

 この当たり前の重要性を理解するために、もっといい具体例がありました。それは田島くんです。彼の競技に対する姿勢と洗う皿の枚数はチーム内でも群を抜いています。ポイントの時なんて、まるで鬼のようです。でも、彼にとってはそれが当たり前なのです。これが当たり前のレベルの差です。そんな彼でも、箱根駅伝では太刀打ちできませんでした。すなわち、このチームにおいては別格である彼の当たり前が、他の駅伝強豪校においては当然のように当たり前なのです。これでは勝負になりませんよね。

 箱根駅伝に出場するために、我々は雰囲気が悪い(当たり前のレベルが低い)という“現実”と向き合い、改善していく必要性があります。

赤信号 みんなで渡れば 怖くない(ダメです)

 では、今の我々はその“現実”と向き合えているでしょうか?はっきり言います。答えはです。誰もこの話を切り出そうとはしません。みんなが感じているのに、、、です。毎月恒例?のミーティングでも、この話は一切言及されません。それどころか、自分たちの現状把握もせず、前の月の振り返りもすることなく、ただ目標を立てるだけです。これではいけません。

 先日行われた3月のミーティングでも、個人目標を少人数グループで共有することが決まりました。しかし、これもまた目標だけです。全てを把握しているわけではありませんが、「その目標、どっからきたの?」と、ツッコみたくなるものが多かったです。自分の現状も振り返らず、ただ目標を立てるのは、言わば、自分の走力も把握せず、自分の走る距離もわからないまま、とりあえずレースをスタートさせているようなものです。ゾッとしませんか?(誤解されると困るので一応補足しておくと、自分はこの取り組みを否定するつもりは一切ないですし、やり方を整備すれば絶対に実りのあるものになると確信しております。)

 目標を立てることしかしない。それは、すなわち“現実”と向き合うことを避けているということです。世の中に反実仮想はないんです。理想の自分は降ってきません。現実の自分を受け止めることが強くなる第一歩です。

 では、我々は“現実”を受け止めることができないのでしょうか?それは仲間の存在が大きいと自分は思います。仲間というものは安心感を与えてくれます。「あいつがやっているから、俺もやろう。」、「あいつがやってないから、俺もやんなくて大丈夫だ」とまあ、こんな具合です。しかし、この安心感が、時に人間の思考を鈍らせます。みなさんも、周りに流されてしてしまった行動を後から振り返って、「なんであの時あんなことしたんだろう」と思った経験がきっとあるでしょう。自分は、、、やめておこう。

 この安心感の話が、チームの雰囲気の話にも応用できます。チームの雰囲気は良くないと思っているけど、みんな何もしてないから自分も何もしないでいい、みんな、自分には無関係だと思っているから、自分にも無関係だ。さあ、みなさん、自分に問いかけてみてください。少なからずこう思っていた部分があるでしょう。こうした当事者意識の欠陥が、チームが“現実”から目を逸らすことを助長するのです。チームのことについて色々と盛り上がっていた時に、自分は無関係だ、どうでもいい、勝手にやってくれ。そう思っていた、そこのあなた。気持ちはわかります。ですが、あなたのその姿勢がこうした問題を生み出したことを、当事者として自覚してください。

 では、どうすればチームとして“現実”と向き合い前に進むことができるのでしょうか?そんなの簡単な話です。全員が向き合えばいいのです。チームの現状についての課題、どうすればそれが解決するのか、そのために自分は何ができるのか?各々が考えて、それを発信して、そして行動してください。気まずいかもしれません。今ある人間関係が崩れるかもしれません。ですが、チームとして強くなるためには絶対に必要なことです。

 苦しいときは、自分が何のためにここにいるのか、自分に問いかけてみてください。行動する勇気が出るはずです。そして、仲間を信じてください。絶対にあなたの考えを受け止めてくれるはずです。自分は千代大海のつっぱりだって受け止める覚悟はできています。全ては、チームとして“現実”を受け止め前へ進んでいくためです。自分が変わればチームも変わります。まずは話しやすい人でいいので、自分の想いを口に出しましょう。想いは言葉にしないと伝わりません。勇気をもって行動しましょう。

神の栄光

 自分の通っていた中高の校訓の一つにこんな言葉がありました。
 「Ad maiorem Dei gloriam」
 直訳すると、より大いなる神の栄光のために、となります。この校訓について、中高生時代の自分は全く理解がありませんでした。「神の栄光なんて言われても意味わからん」、「そもそも、神様って何者よ?」、そんな感じでした。みなさんも今、恐らく、このうるさいやつに急にこんな話を持ち出されて同じことを思っていることでしょう。本当に急でごめんなさいね。少ししたらいい話になるので、そこまで我慢してください。そんなわけで、校訓も理解していない不届きな学生だった自分ですが、現実を受け止めて立ち上がることについて考えていくうちに、あることに気付き、それがきっかけで少し理解できたような気がしました。

 そのあることとは、この世界には相対的なものさしでは測れない善いことが存在するということです。人間というのは、相対的なものさしによって、評価し、評価されます。偏差値、成績、自己ベスト、年収…枚挙にいとまがありません。しかし、こうした目に見える形ではない、絶対的な善さというものが存在するのです。現実を受け入れ、立ち上がることがいい例です。いくら、人が現実をしっかりと受け止めて、そこから諦めずに立ち上がったところで、他の人にはわかりません。しかし、その事実は確かに存在し、その人は人生において“1勝”しています。そうした絶対的な善さを保証してくれる絶対的な存在が、キリスト教における神様で、絶対的な善い行いをすることが神の栄光なのではないか?そう考えると、神の栄光について少し理解ができたような気がしました。(イエズス会関係の皆様、見当違いだったらごめんなさい。)

 今、ここで、我々がチームの“現実”を受け止めて、チームとして前に進んだとしても必ずしも予選会を突破できるとは限りません。むしろ、その可能性は低いと言っても過言ではありません。もし、突破できなかったら(そのつもりは毛頭ないですけどネ)結果しか見ていない世間の人は、どうせ「慶應はダメだ」とか、言うことでしょう。しかし、諦めずに本気で挑んだという事実は消え失せることはないですし、その善さを神様(見ている人)は、きっと認めてくれます。

 JRAのCMにこんな言葉がありました。

 「結果がすべてだ」そう人は言うけれど、あきらめないことは、勝つより難しいことを私は知っている。

 我々の進むべき道は、果てしなく長く、険しい道のりです。頂上がどこにあるのか皆目見当もつきません。しかし、頂からの景色を見るためには、苦しくても一歩ずつ、踏み出していかないといけません。その覚悟を、その努力を認めてくれる人は必ずいます。そんな応援してくれる人たちのため、これまで伝統を作り上げてきた先輩たちのため、自分たちの意志を継いでくれる未来の後輩たちのため、そして何より、ここまでがんばってきた自分たち自身のため。今こそ、全員で現実を受け止め、立ち上がろうではありませんか。

あとがき

 この内容を書くことを決めたのが昨年の12月。そして、今は3月です。実はこの3か月の間に一度、自分は現実を受け止めることから逃げ出しました。現実を受け止め続けることが苦しくて、一時の感情に任せて全てを放り出そうとしました。100時間以上かけて作った、選手や予選会のデータも全部消し飛ばしてやろうと思いました。(班長、ごめんなさい)
 全てを放り出して、これで楽になれる。そう思いました。しかし、そこで自分を待っていたのは現実を受け止めることとは別の苦しさでした。全てを放り出して何もなくなった空虚感、育ててくれた人や場所を裏切った申し訳なさ、高校の頃から何一つ成長していない自分への苛立ち。そういった感情が一気に押し寄せてきました。悲しくて、苦しくて、悔しくて。正直涙が出そうでした。(やっと使えた)
 もう終わりだ。そう思い、塞ぎこみそうになった時、こんなことを言われたような気がしました。

「本当にこれで終わり?」

 そうか、また立ち上がればいいじゃないか。そう思うと、前へ進む気力が湧いてきました。おかげ様で、今はやる気MAX、元気モリモリ森内くんです。安心してください。
 最後に現実を受け止めることに苦しんでいる、このブログを読んでいる方、そして、また苦しむであろう未来の自分に向けて、いい風なことを書いて締めようと思います。

 現実を受け止めるのって苦しいですよね。受け止めるのでさえ苦しいのに、誰にも理解されない、自分のやっていることが正しいのかも分からない。もう、やってらんないですよね。そんな時は、一休みしてください。それと、周りを見渡してみてください。案外、敵だらけではないものですよ。ただ、逃げ出すのだけはダメです。今までの努力が全てパーになってしまいます。一度受け止めた以上、受けきるのが使命です。苦しくても一歩ずつ前に進んでいきましょう。苦しみの先に素晴らしい世界が広がっているはずです。いや、むしろ苦しんだ分、素晴らしい世界が広がっているはずです。大丈夫、自信を持って。やればできます。

以上、今回のブログでした。

 いかがだったでしょうか?また、長くて暗くてまとまりのない文章を書いてしまいました。3000字くらいで収まるかなと思っていたのですが、気付いたらその2.5倍になっていました。あとがきとかいらないだろ、という感じもしますが、自分の罪を告白しておかないと、またすぐ逃げ出してしまいそうな気がしたので書かせていただきました。次回以降は、面白いことを書けるようにがんばりますので温かく見守っていただけると幸いです。

 次回は朝倉さんです。あ、地味にさくらで始まってさくらで終わってますね。なんつって。しょうもないダジャレで台無しにした感はありますが、気にしない、気にしない。それでは、よろしくお願いします。

いいなと思ったら応援しよう!

慶應義塾大学 競走部長距離ブロック 〜選手たちの軌跡〜
よろしければサポートお願いします!いただいたお金は活動資金として大切に使わせていただきます。