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 こんにちは。3年森内です。

 寒い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか?ぼくは寒い日に凍えるのが好きなので快適な毎日を過ごしております。過去に共感されたことがないので、珍しいのかもしれませんが、これがたまらないんですよね。寒いのがムリという人は、ぜひ腹巻を買ってみてください。身体が芯から温まります。
 さて、今回のブログですが例に漏れず、最近?考えたことをつらつらと書いていこうと思います。今回に関してはけっこう真面目に書いた(予定)ので、読んでいただけると嬉しいです。それでは、どうぞ。




今、幸せですか?


 4月期放送のドラマで、主人公に向けて先輩が「今、幸せ?」と語りかけるシーンが度々ありました。その言葉は画面を通り越して自分にも投げかけられているように感じ、自分が今、幸せかどうか考えてみました。(この出来事自体は数か月前の話です)

 当時の自分の答えは即答で「NO」でした。その理由はここではどうでもいいので、割愛しますが、とりあえず当時は幸せじゃないなぁと思っていました。
 最近になって、もう一度このことについて考える機会があって、色々と考えを巡らせていると、ふと気づきました。

「そもそも、幸せって感じたことある?」

 大学、高校、中学、小学校、幼稚園。いくら遡っても幸せだなぁと思った記憶は出てきませんでした。別に毎日が地獄のようだったわけではありません。楽しかった記憶もたくさんあります。30分以上爆笑し続けるほど面白い経験をしたことがある人なんて、そうはいないでしょう。

 でも、不思議と幸せだなぁと思った記憶はありません。どうして、幸せを感じられないのか、どうしたら、幸せを感じられるのか、そもそも、幸せって何なのか、幸せになる必要はあるのか。考えれば考えるほど沼に嵌っていきます。最後の幸せになる必要があるのかについては、必要ないと結論付けたら元も子もないので、とりあえず幸せな方がいいと仮定して、ここでは考えていこうと思います。


幸せってなんですか?


まず、そもそも幸せとは何なのでしょうか?辞書的な意味は以下の通りです。

その人にとって望ましいこと。不満がないこと。また、そのさま。幸福。幸い。

出典:デジタル大辞泉

 
 まあ、そうでしょうねという内容だと思います。ただ、冒頭に「人にとって」と付いているのは非常に重要で、幸せを感じるためには2つの要素が必要だと考えられます。

 1つ目はその人が与えられた”状況”です。健康状態はどうなのか、年収はいくらなのか、友達付き合いはどうなのかといった、客観的に観測できる要素です。

 2つ目はその状況をその人がどう感じるかという”認識”の部分です。例えば、AとBという2人が同じ友達がいないという”状況”であるとしましょう。そして、Aにとってはその”状況”は遊び相手がいなくて望ましくないですが、Bにとっては趣味につぎ込める時間が増えて望ましいとします。この条件では、A,Bともに同じ”状況”ですが、定義によればAは幸せでなくBは幸せだということができます。
 つまり、自分が置かれた”状況”を幸せだと認識することが幸せを感じるためには必要だということです。

 幸せがこの”状況”と”認識”の両輪で成り立つというのは、みなさんも理解していただけると思います。しかし、普段の生活で意識するのは、ほとんど”状況”の部分だと思います。○○があれば、○○がいれば、○○すれば、
シュネルマイスターが飛ばなければ,etc.
 
 こういった具合に、“状況”ばかり意識して“認識”の部分は重視されないのはなぜでしょうか?それは、恐らく“認識”が潜在的で固定化されたものであるからだと思います。つまり、お金が多くあった方が望ましいというような“認識”が前提となっているため、その枠組みの中で“状況”をどうにかして自分にとって望ましい“状況”にしようとするから、そちらが重視されるということです。
 
 しかし、 “状況”を変えることは非常に難しいです。急に所持金が増えることなんて滅多にな、、、ないように、“状況”を他者との関わりなど多くの要素が絡んで、自分にとって望ましい“状況”にすることは難しいと思います。

 だからこそ、“認識”が重要になってくるのだと思います。“認識”は自己完結しているので、自分の考え方如何によって変えることが出来ます。“認識”を改めることができれば、幸せを感じるために必要な“状況”が変わります。その“認識”の変化によって達成可能性が高い“状況”を幸せの必要条件にすることができれば、幸せを感じやすくなります。

 つまり何が言いたいかというと、普段は前提となっている“認識”に目を向けることで人生が楽になるかもしれないということです。

 

手を叩いたら幸せなんですか?


 夏のオフ期間に高校の先輩に呼び出されて、話をする機会がありました。絶対に跨がないと誓っていたコーヒーショップの敷居を跨ぐという屈辱的な経験をさせられたのですが、話の流れで自分の競技の話になったので、ペラペラと喋ると

「毎日やることがあって楽しそうだね」

と言われました。
 詳しいことは後述しますが、当時走るのが本当に辛かったので、それを言われたときに内心、「何言ってんだコイツ」と思ってかなりムカつきましたが、今になって振り返ってみると、これも“認識”の問題です。その先輩にとっては毎日目標に向かって努力することができることは楽しい≒幸せだったようです。
 その時はムカつきましたが、今振り返るとそういう“認識”の仕方ができていたらもう少し楽だったと思います。当時は走れないことに頭が行き過ぎて、自分の“状況”に対する“認識”が単純になっていました。


 今は昔、森内家にも家族団らんがあった頃、姉がよく

「和食が食べられるから日本人に生まれてきて幸せ」

と言っていました。

 内心「また、浅いこと言ってるよコイツ。」と思っていましたが、それを口に出したら命が危ういのでいつも心に留めていました。
 当時は小馬鹿にしていましたが、今振り返ってみるとこんなに浅いことで幸せを感じられるって素晴らしいことだなと思います。(こうして書いてみると、また小馬鹿にしているように感じますね。そんなことは断じてありません。断じて。)

 みなさんご存じだとは思いますが、幸せなら手をたたこうという童謡があります。誰しもが小さい頃に一度は歌いながら手を叩いたことがあると思います。お察しの通り自分は死んでも手を叩かないタイプでしたが(笑)
 よくよく考えてみると、これって手を叩くかどうかだけで幸せかどうか決まるんですよね。自分がどんな“状況”であれ、とりあえず手を叩けば幸せということになる。

 これは人生でも同じことが言えて、発想の転換をしても、どんなに浅いことでも、幸せを感じることが出来れば勝ちなのだと思います。幸せは降ってくるものではなく、見出すもので、だからこそ幸せでありたいと願うのであれば、どんな手を使ってでも見出すべきなのです。



走っている時は幸せですか?


と、ここまで胡散臭いことを書いてきましたが、こんなことを書くのにはきっかけがあります。それは先ほど、ちょろっと書きましたが、走るのが辛い時期あったことです。そこから考えるところがあったので、今回の題材にしました。

 さて、みなさんは走っている時は幸せですか?走っていない方は、仕事をしている時、勉強している時、あるいは家事をしている時に幸せを感じていますか?
 感じているという方、感じていないという方、どうでもいいという方、人それぞれだと思います。

 自分はどうでもいいと思っていました。やることやって、そこから結果が付いてくるんだから感情とかどうでもいいでしょ?そう、思っていました。

 自分は暑いのが大嫌いで毎年夏は調子が悪いのですが、今年の夏は特に酷くて、全く走れませんでした。走ると頭痛と息苦しさが出てしまい、どんなに頑張っても2㎞走るのが限界みたいな日々が続きました。そんな日々に対して、自分は一切の感情を排することで対応しようとしました。予めこうなったらこうと機械的に決めておいて状況に応じてやれることをやるというスタンスでいました。

 しかし、毎日思い通りに走れないと、だんだんと負の感情が芽生えてきて、走る前に靴を履くときにいつもどうせ今日も走れないんだろうなと後ろ向きな感情を持ちながら靴を履いていました。走っている最中は、痛くて苦しいという状況の中で、心の中でただひたすらに「逃げちゃダメだ!逃げちゃダメだ!」と唱えるだけでした。
 走るのが辛すぎて、誰か助けるか殺すかして楽にしてくれないかなぁと真剣に考えていました。今、思えばヤバいですが。

 そこから、ありがたいことに色々ときっかけもあり、だんだんと走れるようになりました。走れるようになると走ることへ前向きな感情を持ちながら練習することが出来るようになりました。それと比較しながらこの時期を振り返ると、気の持ちようって大事だなと思います。後ろ向きよりも前向きな感情を持っていた方がいい練習ができます。
 だから、前向きに生きようと締めたいところですが、上手くいかない時って前向きにはなれないと思います。

 上手くいかない時は後ろ向きになって、さらに上手くいかないからさらに後ろ向きになる。上手くいく時は、前向きになって、さらに上手くいく。この2週類のループがあって負のループに陥ると、どんどんと状況が悪くなっていきます。
 そんな状況で前向きになることなんて難しいです。自分も走るのが辛い時期に、前向きになれとか言われたらキレていたと思います。

 それでも、走れるようになるためには、その負のループから抜け出さないといけません。その時に重要になるのが、幸せを見出すことなのだと思います。走れない時にその状況が一気に改善されることは、まずありえません。だからこそ、自分の機嫌を取れるような小さな幸せを見出すことが、負のループを断ち切りことに重要になるのです。
 自分の幸せの1つは、練習が終わった後に歩いている時間です。ジョグでもポイントでも練習が終わった後に身体が楽になっていくのを感じながら、練習をやり切った達成感に浸るのは幸せです。

 最後にひとつだけ。自分が好きな本の一節を紹介して終わろうと思います。

生きてさえいれば希望は潰えることはない。たとえ、それが頼りなく弱い光であっても

 どんなに辛い状況であっても、必ず希望はある。それを見つけられる人間でありたいし、自分のそして他人の光を強くすることができる存在でありたいなと思いました。


 ここまで、長々と書いてきましたが、書いていても突っ込みたくなるところがあるくらい、変な文章になってしまいました。サボりすぎて今日のマイルCSが終わってから書き始めたので、完全なる準備不足ですね。タイムオーバーもして申し訳ないです。次はちゃんとします。いつも書いてる気はするけど。


さて次は、上原くんです。よろしくお願いします。

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