ソクラテス的☆対話をしよう!
こんにちは!
関口から引き継ぎましたマネージャーの中井です。
前回の関口のブログの末文に、普段の関口(経、1年)からは出ないであろう「よろしくぅ☆」という言葉がありまして、いま現在進行形で悶絶しています(可愛い!!)
今回はタイトルにもある通り、「ソクラテス的対話」について、とくに他者の意見を受け止めるという側面に焦点を当てながらお話しようかと思います。
なぜこんなにも堅苦しそうで、これっぽちも陸上が関係無さそうなテーマを話すのかって、書こうと思っていた話題が私の少し前ですでに取りあげられていたからです(涙)!!
同じことを話してもしょうがないので、「対話」について話しながら、当初から話したかったテーマについても少し触れられればと思います。
※ここでのソクラテス的対話は無知を自覚させるのに焦点を置いた元来の手法ではなく、近代で定義されたグループワーク方法論的な手法を指します。ソクラテス的対話の有識者の方々お手を柔らかに!
少し前の本ブログで小倉(総、1年)がモチベーションについて語ってくれました。この話について、私は去年の秋頃に本人の口から同等の内容を聞きましたが、その時のことを鮮烈に覚えています。なぜなら「モチベーションで動いてはダメだ、毎日決めたことを淡々とやるべき(意訳)」という言葉が、かっこつけようとかの気持ちがいっさいない彼の純粋な言葉に聞こえたからです。実際に小倉がつい先日のブログで語った「モチベーション」に対する姿勢は以前と変わらないものでしたから彼にとってその姿勢は揺るがない確固たるものなのでしょう。
ただ、「モチベーションは無意味である」という字面だけを見て彼の真意を誤って認識する人は少なくないでしょう。一方で小倉の言葉に耳を傾けてくださった方なら(まだ小倉のブログを読んでいない方がいたらぜひ!→やるかやらないか|慶應義塾大学 競走部長距離ブロック 〜選手たちの軌跡〜|note)、彼は箱根駅伝に対する熱意にあふれた選手だとわかってくれるはずです。
このように他者の言葉の真意を受けとめるためには発言者の声に注意深く耳を傾ける必要があります。
こうした傾聴する姿勢をもって他者を受け入れ、また正確かつ具体的な発言をもとに相互理解や合意を目的とするのが近代で定義された「ソクラテス的対話」です。
私が「ソクラテス的対話」を初めて実践したのは高校時代に行った西洋古典の切り抜きを題材とした対話会でした。そこでの原則は1.互いが自由に発言をすることを認める。2.他者の意見を否定しない。の二点でした。
この対話会の良いところは自身が発信した意見に対して、他者は言い負かそうとする鋭い言葉やある種の悪意がこもった言葉を返してこないところです。彼らはただ淡々と同じ話題についての彼らなりの意見を述べてくれます。ですから私は心穏やかに他者の意見を聞けますし、その過程で話題に関する理解が深まって、話題の落としどころが見える瞬間がやってきます。
この経験から私は互いを尊重した課題解決を実現する方法として「ソクラテス的対話」に一目置いてます。
ですがこの「ソクラテス的対話」を日常生活で実践することは非常に難しいことのように思います。とくに他者の話に傾聴し、そして受け入れるということは現代の競争社会ではなかなか困難なように思います。傾聴には時間を要しますし、他者に打ち勝つことを強いられる社会では他者を受け入れることは習慣化されていませんよね。
では具体的に傾聴と受け入れを阻害している要因は何なのでしょうか?
私は大まかに次の2点だと考えます。
・ 偏見
・ 言葉の曖昧さ
〇偏見
「偏見」とはその字面通り偏ったものの見方のことですよね。陸上でいえば「あいつは俺より競技力があるから正しい」、逆に「あいつは俺より劣るから間違いだ」などの考えです。「いやいや別にそんな偏見もってないから!」と主張するそこのあなた、墓穴を掘りましたね!あなたは「自分は公平に考えられる」という「偏見」を持っていることを露呈しました。あなたが公平な人かどうかは他者のみぞ知ります。そして「俺は、私は大丈夫」と言ってる人が経験上一番厄介です(笑)(これは私の偏見ですね…)
しかし、この他者があなたの公平性を評価するという事柄も偏見を排除できているわけではありません。他者もまた偏見を持つ存在ですから…
偏見≒主観とも言えます。よって人は大小何かしらの偏見を持つのです。他者を受け入れる上で重要なことは偏見なしに他者を見つめることではなく、自身が偏見にまみれていることを理解した上で他者の言葉に真摯に耳を傾けることだと思います。
〇言葉の曖昧さ
人がある言葉から受ける印象は千差万別です。「コップの中に少し水がある」はどの程度でしょうか?コップ半分?それともコップの底から1cmほどの高さまで?このように同じ言葉でも全く違う意味を示すことがあります。
上でも話題にとりあげました小倉のブログの内容について、彼にとっての「モチベーション」や「情熱」という言葉を私は他の言葉で表すことが多々あります。小倉はブログで「情熱」に従えば目的を達成できると言いました。私は小倉の言う「情熱」のようなものを「契約」や「根源的/自発的モチベーション」、「義務」と呼びます。
私は慶應大学の長距離サポートとして箱根駅伝に参加するという目標をもったきっかけ、エピソードとその時の私自身の思いを象徴的な記憶と認識して、その象徴に対して責任を負い、必ず目的を達成すると私自身に約束しています。この約束が私にマネージャー業を遂行させる理由になっています。まさに小倉の言う「情熱」です。
私は小倉が嫌うであろう「義務」や「モチベーション」という言葉を使って彼が重要視する「情熱」という言葉を言い表します。
言葉が持つ意味のゆらぎみたいなものを認識しつつ会話を進めないと、他者を誤って評価する可能性は非常に高いです。
(私は「偏見」と「言葉の曖昧さ」を分けて記載しましたが、「言葉の曖昧さ」もまた各人の「偏見」からきていると言えますね。ここであえて分けて記載したのは「偏見」のなかに「言葉の曖昧さ」みたいなものが意識されにくく、また言葉は会話をするうえで必要不可欠なツールであることからとくに言及したいためです。)
以上で記した傾聴と受け入れを阻害する二つ要因への対抗策をまとめると「知識で武装しろ」ということです。「自身は偏見を持つ」、「言葉の意味にはゆらぎがある」ということを知ると、会話における人の態度は知る以前のときとは変わってくるはずです。
「対話」を重要視する立場の私が懸念することは、部活動という現場において「対話」が実現し得るのかという点です。上下関係や競技力が絡む部活動の現場では「対話」が困難であることは百も承知です。だからこそ、深い知識を持つ慶應の学生が己をコントロールして部活動の現場でも「対話」を実現させることが集団のパフォーマンスを高め、他大と差をつける上で重要な役割を果たすと信じています。
以前から「対話」を実践していた人も、実践していなかった人も自分の会話に対する姿勢をいま一度見直すことでよりよい話し合いを持てるようになると思います。
このように偉そうに述べている私自身も実践できていない場面が多々あるので日々見直していかないといけませんね(苦笑)。
ここまで長らくお付き合いいただいた読者の皆様、大変感謝いたします。私自身この文章を書きながら自身が偏見でまみれていることを何度も自覚させられました(笑)。
この文章に対して否定したくなることも多々あったと思われますが、最後まで読むことが出来た方は「対話」における重要な能力の傾聴力がきっと備わっていることでしょう。そして私の意見に全く同意できなかった方は、若輩者の戯言だと思っていただいて構いません。少なくとも私の意見を傾聴することでこの話題に関する落としどころが見つかっていればと思います。
それでは読者の皆様に敬意と感謝を申し上げまして結びとします。
次回は東くんです!よろしく!