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余白を大切にしようと思ったお話

 こんにちは。3年森内です。ご紹介いただいた通り、先日のイベントで子どもに懐かれてしまいました。自分の隠しきれない人柄の良さが伝わってしまったのでしょうか?…すいません。

 真面目な話をすると、目線を合わせて話したからでしょうね。子どもと話す時は、上から話すと圧力を与えるという記事をどこかで見たので、ちゃんと目線を合わせて喋ったことが勝因です。偉そうな大人はウザいということです。みなさんも小さな子どもと話す時は意識してみてはいかがでしょうか?

 さて、今回のブログですが、自分の中での整理も兼ねて、最近考えた(考えている)ことを書いてみようと思います。断っておきますが、友情物語ではないですし、サクセスストーリーでもありません。そして、ほとんどの人において全く参考にならないでしょう。だが、情熱はある。ということでやっていきましょう。ひとつよしなに。




夢が飛んでいった


 先日、春のグランプリの宝塚記念(2200m)が開催されました。圧倒的一番人気に推されたイクイノックスが、レーティング世界1位の自力を見せつけて勝ちましたが、私の本命のダノンザキッドくん(5さい)は13着と惨敗してしまいました。そこで、敗因として挙げられていたのが距離の壁でした。

https://news.yahoo.co.jp/articles/10bdcaad52d24409325f8944d577fa360dc7ad5b

 
 しかし、ここで自分の中にとある疑問が出てきました。

「2000m走れて2200m走れないってある?」
というものです。

 この馬は4月に宝塚記念と同じ阪神競馬場で開催された大阪杯(2000m)で3着と好走していて、2000mでは他競馬場で2歳戦ですが、G1での勝ち鞍もあります。相手関係や展開、調子の違いがあったとはいえ、2000mと2200mでそんなに違いがあるものでしょうか?

 距離が倍くらい違えば、理解できます。人間界でも100mは得意だけど200m苦手、5000mは得意だけど10000mは苦手という人は多いと思います。しかし、2000mと2200mの、その200mでそこまでの違いが出るというのは、さすがに理解しがたいです。

 どうして、そんなに違いが生まれるのか、考えました。考えた結果、行き着いた答えが、競走馬本人(本馬?) は自分が走る距離を知らないから、というものでした。

 自分が走る距離を知らないとペース配分ができません。調教(練習)で調整したり、騎手によるエスコートがあったりするとはいえ、自分の走る距離が分からなければ、その200mの差が大きく影響するのは想像に難くないと思います。みなさんも、自分の走るレースの距離が分からなかったらどうでしょう。きっと、むちゃくちゃキツいと思います。
 
 レーススポーツで、走者が自身の走る距離を知らないというのは、とても珍しいですよね。他競技でその特性があるのは、パッと思いつく所で言うと、シクロクロスといったところでしょうか。しかし、目安1時間と決まっていますし、走る本人(本馬)が何も知らないのは、競馬だけだと言えるでしょう。(他に何かあれば教えてください)

 この点で、競馬はレーススポーツの中でも特殊と言えます。

カーナビをなぞるようには簡単にはいかない


 しかし、ここで森内くん、発見しました。

「逆に、走る距離分かってるのって、レーススポーツだけじゃない?」

 たとえば、人生。

 時間的な観点でいうと、自分がいつ死ぬかなんて分かりません。

 質的な観点でいっても、人生の目標を達成するまでどのくらいかなんて分かりません。
 (貯金いくらといった定量的な目標であれば、話は別ですが。
定量的な目標といえば、クラウドファンディング。多くのご支援をいただいて大変ありがたい限りですね。)

 このように、大体のものは、目標,ゴールに対して自分の位置が定まりません。そして、それは陸上競技においても同じことが言えます。

 我々は日々、個人としてもチームとしても目標があり、それに向かって走っていますが、そこまでの距離は計測不可能です。目安や逆算によって推測はできますが、それはあくまで推測であって正確ではありません。

 だからこそ、ペース配分が難しく、時には成功し、時にはオーバーペースでパンクをし、時には届かなくて後悔します。そういった難しさを内包しているからこそ、みんな挑戦するのかもしれませんが。

 そして、最近、自分はこの目標と現在地の距離について考えさせられる機会が非常に多くなっております。というのも、持ち前の暑さ耐性の無さ他、諸般の事情により、体調不良が続いており、全く自分の想定通りの練習ができないからです。

 自分の想定から外れる度に、その距離を突き付けられ、このままのペースではイカンガ―、どうすればイイデセゾンと考え込んでしまいます。それでも、ゴールにたどり着くためには前に進み続けなければいけません。自分なりの打開策を考えて、前に進もうとしますが、また、想定から外れます。これを繰り返していると嫌気がさしてきます。

 こんな時、ルメールさんみたいな人が、導いてくれればいいなと思ったりもしますが、結局走るのは自分自身です。自分の手で解決しなければなりません。と言っても、いきなり体調が良くなることもないので、まずは考え方からどうにかしようと思いました。考え方をどうこうするためには、まずは自分の考え方を理解する必要があります。

結論、ただの完璧主義


 自分なりに、自分がどういう考え方,行動指針を持っているのか内省してみました。その過程は省略しますが、結論「Agere Contra」という一語に集約されていると分かりました。

 この言葉は中高の校訓で、直訳するとラテン語で「反対に振る舞え」という意味になります。これだけでも、天邪鬼な自分にピッタリだと思いますが、この言葉にはもっと深い教えがあります。

 それは、自分が選択を迫られた時に、逃げたいという気持ちに惑わされず、自分が決めた目標に向かって進むべき道を選択しなさいというものです。ここだけ切り取るとものすごく高潔な人間に感じられますが、自分がそんな人間であろうはずがありません。

 単純に、目標に向かって何回も選択を迫られるけど、その時々で最善手があり、全てを読み切って最善手を選択したいと思っているということです。

 確かに理論上は、目標と現在地があれば、どんな状況においても最善手があるはずです。

 それをし続ければ、効率よく最短でゴールまで辿り着けます。自分は通学経路にこだわったり、数学の問題を綺麗に解きたがったりする癖があるのですが、これも同じことだと思います。

 言い換えると完璧主義と言うこともできるかもしれません。というか、こっちの方がしっくりきますね。まあ、いいや。

 しかし、神様でもない限り完璧で居続けることなんて、できません。ちょうど今、王位戦の生中継を見ているので、将棋の例えをしますが、七冠を制覇している藤井さんですら、AIの最善手を指し続けることはできません。(たまに超えますが)

 今の自分の状態は、将棋で例えるなら、読みが全く冴えてないのに、読みが外れる度に長考して、持ち時間を浪費し自滅している、といったところでしょうか?

 とても、間抜けですね。これでは、勝てる勝負にも勝てません。では、どうすればいいのでしょうか?

将棋の例えは要らなかった


 考えた結果、二通りあるなと思いました。

 一つ目は、分けて考えるということです。全体を通しての最善ができないのであれば、部分的な最善を目指せばいいということです。
 将棋風に言えば、馬を作れる、歩得であるといった、主張を作るといったところでしょうか?

 二つ目は、最善ではないことを受け入れるということです。心理学用語っぽく言えば、不完全性を受け入れると言えるかもしれません。最善手を指せない自分すらも『ええんやで』と認めてあげるのです。そうすることで、無駄に神経をすり減らすことが無くなります。
 将棋風に言えば、難しい局面で決断良く指して、終盤の勝負所に時間を残すといったところでしょうか?

 このように、今の自分の考え方の改善点を並べてきました。しかし、部分最適を目指したところで、他の部分のマイナスが嵩み、全体でみるとマイナスになってはいけませんし、不完全性の受け入れが逃避行動に繋がってはいけません。
 要するに、バランスが大切ということです。ニチレイの恋する瞬間講座で習った通りですね。

 結論、Ⅹ軸を完璧主義度、Y軸を成果として、そこに描かれた上に凸の2次関数のグラフ上に自分がいるとするならば、自分を頂点に移動させ、かつ、グラフそのものをY軸方向に正の移動をさせれば良いということです。
 このことを頭に入れて毎日を大切に、そして楽しく生きていきたいと思いました。

おわりに


 今回も長々とダラダラと書いてしまいました。まとめると、競馬で予想を外して悔しかった目標設定の仕方は時と場合によって、変えていかないといけないよね、という話でした。

 さて、次回は上原くんです。手術からカムバックしてきました。何気に一緒に練習したことがほとんどないので、この夏は一緒にできたらなと勝手に思っております。それでは、よろしく!

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