ノクチルの捻れと方向
◉前書き
はじめまして、〼研8期の犬儒派と申します。主に283Pとしてプロデュース活動に励んでいます。本稿ではノクチルについて思っていたことをまとめようと思っています。また、このテキストは慶應大学アイドルマスター研究会誌「Our Selfish 〼querade!」(C103にて頒布)に寄稿した文と同様のものです。
◉序論1
ロラン・バルトは『物語の構造分析』(1966)で、物語の構造的分析を試み、その手法を確立することを目指した。バルトは物語の記号的側面からのアプローチにより物語の構造を条理的に把握した。しかし、もし物語をその範囲が限定されない世界の描写として捉え、リゾーム的な、現存在的な変化しつつあるものとして捉えるとすれば、構造的分析のほかにリゾーム的な分析が可能となるだろう。リゾーム的な分析では、物語に登場する登場人物や様子を物語の変化の方向性の素子として捉え、物語の大まかな領域を(物語内の)時間軸に従って行動させる要因として扱う。ここでは、各素子の持つ物語の方向性への働きかけの力はベクトル的に表されるだろう。(様々な方向のベクトルを総合したものとしてとりあえず表せるから。)
◉序論2
ノクチルはねじれている、とあえて断言したい。ここで指示される「捩れ」の意味内容は、人間関係の不和を指すものでもなく、当然物理的捩れを表すものでもない。ノクチルは、内包する複数の方向性においてねじれている。ノクチルのメンバーは全員が異なった方向性を持つ、と私は考える。ここでは、このねじれたノクチルの現況を粗雑に把握することにより、彼女たちの今後とその魅力の根源について考えたい。
プロデューサー→P
LandingPoint→LP
enza版→シャニマス
(コンテンツ全体としての)シャニマス→『シャニマス』
「」で囲まれた文はコンテンツ内からの引用であり、その後の()は出典を表します。
◉現況の把握
●浅倉透
彼女がどこを向いているのかということは、シャニマスのノクチル、浅倉関連のコミュでは必ずと言っていいほど言及される事柄である。先に述べたように当然方向性は一つの要因によるものではなく、主体の抱える様々な事象により構成されるが、ここではこれらをいくつかのセリー(系列)に類型化することで提示したい。
・P
Pと出会う前の透は「飛びたがっている」(樋口STEP)、または「窮屈な状態」(透LP)であったという描写がなされている。浅倉はPや樋口の語りで「飛ぶ」と表現されることを、「のぼる」と表現している(透STEP)。また、「のぼる」ことは、浅倉の中で根源的な欲望として存在している(例えば、透WINGでは、登ってもてっぺんにつかないジャングルジムの夢をよく見るという旨の描写がなされている。)。そして浅倉がジャングルジムに好んでのぼる理由は、実際にのぼりたいという願望を、ジャングルジムに登ることと重ね合わせているからであると考えられる。WING、STEPに示される通り、透のアイドルに対するモチベーションは過去のP(高校生の時の)とのジャングルジムでの思い出である。透がこの思い出を重要視している原因は前述したジャングルジムが好きな理由から推測される。他の人々がジャングルジムに興味を示さない中、過去のPは率先してジャングルジムに登り、「おれが、行くからさ!」(透STEP)と透に訴えた。透はここで過去Pの行動と自らの根源的欲望を重ね合わせ、過去Pを形相として、自分と一緒にのぼってくれる存在を希求し始めたと考えられる。また、コミュにおいて浅倉のこの出来事についての回想がぼやかされた背景とノイズとも取れる音の介在により語られるように、この出来事自体は浅倉の中である種の神話化がなされ、ある種の象徴として機能していることが窺える。よって浅倉の過去Pに対する感情は、根源的欲望である「のぼる」ことをアシストしてくれる存在の希求として、浅倉の内部で方向性を持っている。また透は、現在のPに対して、自分をのぼらせてくれる存在の希求の原因としての視線と、自分といっしょにのぼってくれる存在としての視線を向けている。前者の視線については、透WING、STEPで透がPと思い出の中の人物が同一のものであると気づく描写があることから明らかであり、後者の視線については、透のPに向けたセリフである「のぼってよ 風邪ひいてよ…ケガしてよ 一緒に」(P.SSR【国道沿いに、億光年】浅倉透)から読み取ることができる。よって、これらのことから、Pの存在は、透に対し、過去、現在の双方から「のぼる」ことを追求させる方向性として機能しているといえる。
・ノクチルの各メンバー
透は幼馴染であるノクチルのメンバーに対しても大きな感情を抱いている。特に同い年の(家が横の)樋口に対してはねじれた視線が向けられ、また向けられている。樋口に対する浅倉の呼称は円香から樋口へ変化していることはこのねじれの現れであると思う。(該当するコミュを探し当てられなかったのでただのオタクの妄想にすぎないが)樋口との関係はプリミティブな交友関係から、樋口の変化を原因として牽引、牽制を含む関係性に変化したと考えられる。雛菜に対しては、おそらく幼馴染の後輩に対するごく普通の視線を向けている(雛菜はそうではないように見える。雛菜は透を見つめ、その行く先を注視し自らの行動に反映させている)。また小糸に対して向けられる視線に関しても同様であろう(同じく小糸もそうではない)。彼女らに向けられる感情が好意的であるかぎり、それは現状維持の意味合いを必ず内包する。彼女らの関係性の維持は、今まで続いてきた幼馴染の絆、ノクチルの維持として現れるだろう。よって彼女らに対する感情は透に対し現状を維持しようとする力として機能すると考えられる。
・アイドルとして
コミュ「天塵」では、ノクチルの各メンバーのアイドルとしての自覚の芽生えが描かれた。また、GRAD(クラスメートとの交流の場面)においても、浅倉は徐々に自らのアイドルとしての道と、自らに懸けられた期待を認知していく様が描かれる。ここから、透は徐々に自らの行動を客体化しつつあることが読み取れる。よって、現在の浅倉は、それを突き動かす要因として自らのアイドルとしての自覚を有していると考えられる。アイドルとしての自覚は透に対し、ベクトルを引き止めるものではなく、ベクトルの方向性を整流するものとして機能するものと考えられる。(注 ここでは透が求められるアイドル像は非条理的なアイドルであるという指摘が可能だと思います。この指摘は透のみならずノクチル全員について適用可能な指摘でしょうし、そのうち掘り下げたいとは思っています)
○透総論
透は様々なセリーに従ってノクチルでの方向性を示していることが把握された。透の内部においては、過去のPへの憧憬が原風景φとして機能し、これの不在を原動力としてさまざまな透的活動が行われてきたが、現在のPとの邂逅とアイドルとしてのデビューにより、原風景φの空白はこれらにより埋められ、行動においては、アイドルとしての自覚に端を発する方向性の影響が強まりつつあることが、最初のコミュ「天塵」、WINGから、「ワープフルフールガールズ」、LPにかけて、(過去の)Pに起因するセリーは弱まり、アイドルとしてのセリーが強まっていることなどから読み取れる。現在の透は、様々な方向性に揺り動かされながらも自らのアイドルとしての方向性を固めつつある。浅倉は客体的に整流されつつありながら、その主体的な流動性を失わずにいる。
●樋口円香
樋口の見つめる方向性はセリーがさらに複数のセリーとして分類される構造を持つ。第一のセリーとして、透への感情、Pへの感情、アイドルとしての自覚、ノクチルとしての未来が挙げられ、さらにこれらのセリーの内部には理想と現実の二律背反を内包され、これらの背反の両項はそれぞれセリーとしてまとめられる。ここではまず前者のセリーを分析したのち後者のセリーを明らかにしたい。
・透への感情
幼馴染たる透との関係性は、透の項においても記したように時間に応じ変化している。「天塵」のプロローグ、樋口の回想において示される通り透に引きずられる浅倉という構造は既にあったが、しかしながらこの関係性は現在の関係性とは構造を異にしている。円香STEPにおいては、樋口は透を「飛びたがっている」と表現している。つまりまだ飛んでいないし、透は手元にいる。一方現在の関係性では、円香はアイドルとして走り出した透に対しての焦燥からの透への諦念と透が飛び立つことへの諦め(手元からの逃走、透の変容「透は走り出してしまった」(樋口STEP))と、透に対する牽引の試み(野放図(に見える)透の制御、現状維持の試み)により構成されていると言える。透への感情は、樋口の方向性に対し、現況を維持しようとするものとして、あるいは現況の変化を(渋々でも)諾うものとして働くだろう。
・Pへの感情
樋口をPラブとして一義的に解釈するのは間違っている。樋口のPへの感情は、樋口→Pという単純な構造を持たない。当然直接的なバイパスが存在することは認めるが、樋口から別の何かを経由しPに至る経路を視野に含めない限り樋口を解釈することは無意味だろう。
円香STEP, WINGに示される通り、そもそもPへの感情が向けられた原因は透とPとの接触にある。樋口は自らの手元にあった透をプロデューサーに取られた、透を飛ばせてしまったという怒りからPへの接触を図った。(この怒りもだいぶ高校生っぽくてかわいいよね)そもそも感情の起爆剤は透である。Pへの感情は不信感からスタートしている。Pとのファーストコンタクトの場面に好意は介在し得ない。Pへの感情はPの樋口に対する姿勢、つまり樋口LPにおいて顕著に見られるような、樋口にも翼を用意してあげたい、樋口自身のためにという言明とそれを裏付ける行動により生じたと考える。Pへの感情は、樋口の方向性に対し透(あるいはノクチル)とは離れた自らの方向性を励起させるものとして機能するだろう。
・アイドルとしての自覚
アイドルとしてのデビューのきっかけは、透に対する追随と牽制の意図であっただろう。しかしながら、Pの意図のように、アイドルとしてのデビューは樋口に対し、樋口自身を重視することも働きかける。透との関係性の中での自らを客体化し捉えるのではなく、アイドルとしての自らのために、自らを捉えることを行い始める。このように、アイドルとしての自覚は、樋口に対して樋口自身を成長させるものとして機能する。一方で、透に対するフォローアップの意図としての機能もまた保持している。
・ノクチルとしての未来
ノクチルはアイドルユニットである以前に幼馴染である。ノクチルの未来には二つの方向が考えられる。一つ目は幼馴染としての性格を強め、アイドルユニットとしてではなく過去のままで存続していくこと。二つ目は、ユニットとしての性格を強め、積極的に変容していこうとすること。イベントコミュ「海に出るつもりじゃなかったし」は、この二つの方向性のせめぎ合いを描写していると読み取れる。この感情の原動力は透、雛菜、小糸への親愛の情が主だろう。樋口はおそらくユニットの抱える葛藤を理解しており、この二つのせめぎ合いの中で、ノクチルの未来の構想は、樋口の方向性に対して現状を維持する方向と、アイドルとしての羽化を促す方向という2種類の方向性を励起していると考えられる。
○第二のセリー
以上の通り、大まかに四つのセリーに分けて樋口に方向性を与えるものと、与える方向性を考察した。Pへの感情を除いた3つのセリーの中には、複数項の対立、現状を維持しようとする力と変化を諾う力の対立が含まれている。これらの対立は第二のセリーとしてさらに類型化することが可能である。現状を維持しようとする力の項には、透に対する牽引の感情、透へのフォローアップとしてのアイドルの側面、ノクチルを幼馴染にとどめようとする力が含まれ、変化を諾う力の項には、浅倉の成長に対する諦め、自らを成長させるものとしてのアイドル、そしてノクチルをアイドルユニットとして成長させようとする力が含まれる。
○樋口総論
セリーの分析によって、樋口はいろいろな方向性を内包しながら、大体の場合二つの方向性(変化を諾う、現状を維持する)を指向することが読み取れた。樋口の内部においては、変化と現状の力が鬩ぎ合いながらも、自ら羽化しようとする力が働き、おおむね変化の方向のベクトルを示している。樋口は思春期的な矛盾と不安定の中で自ら羽化しようとしている。
●市川雛菜
雛菜は一貫した規範(しあわせか、しあわせじゃないか)に基づいて定立しているように見える。よって、セリーとしての分析ではなくこの規範自体について考えることにより雛菜の方向性を明らかにしたい。この規範は快不快の直感的判断に全て従属するものではない。雛菜が不快と感じたからしあわせじゃない、雛菜の気分がいいからしあわせ、ではないことは、雛菜WINGにおいても表されている。ここでは、雛菜は自らの接する状況をある程度俯瞰的に捉えた上で、規範的判断を下していることが読み取れる。雛菜の規範は、自らがしあわせであることを前提として、周囲(すきな人)のしあわせの総量を最大化することだと捉えられる。ここで、雛菜の規範的判断は必ずしも道徳的、もしくは功利的判断とは一致しない。コミュ「天檻」のエピローグでは、透がプールに飛び込んだのを見て、飛び込まない方が社会的には正解である(スポンサーや他ゲストとの間に摩擦を生まない)にもかかわらず、しかもそれを判断できるだけの十分な間を置いたうえで透と樋口に追随しプールに飛び込む。(この後小糸も飛び込む。)この点において、他のメンバーが方向性として持つような具体的方向性を持たないといえる。雛菜は、アイドルでありたいと望むのではなく、現状しあわせであれるという判断のもとにアイドルであり続けている(参照:雛菜GRAD 「雛菜は誰かのためじゃなくて、自分が楽しくしあわせでいるために、アイドルしてるのでそういう雛菜を見て、誰かがたのしくなったりしあわせになったりしてくれるから…だからいつも雛菜は雛菜がしあわせな方を、選ぶようにしてます」)。よって、雛菜は自らがしあわせであることを前提として、自らの周囲(すきなひと)のしあわせの総量を最大化するという規範的方向性を内包しているといえる。
しかし、雛菜を単に打算的で冷笑的な存在として捉えるのは過ちである。雛菜はアイドルとしての活動を通じ、自らの目指すべき具体的な方向性について思い悩んでいる(参照:雛菜LP 第4週「雛菜は一生雛菜だけど、雛菜は一生、ノクチルじゃないでしょ?」)。そして雛菜は、アイドルとしての活動を通じ、雛菜は「市川雛菜」でありたいという指針を獲得する(参照:雛菜GRAD『A.H.I』)。この禅問答的な指針には、雛菜の現状(アイドルであること)への満足と、その現状を持続させたいという意図が含有されている(参照:雛菜GRAD『A.H.I』)。よって、雛菜はその内部に、しあわせになれるアイドルとしての活動、そして雛菜としての生き方を持続させていきたいという方向性と、先に挙げた規範的な方向性を内包している。雛菜は、「しあわせ」であり続けることを今までと同様に望みながらも、アイドルであり続けることも望みつつある。
●福丸小糸
小糸は自分のことを「だめだめ」(『わたしの主人公はわたしだから!』)であり、かつ周囲に求められるような存在であり続けなければいけない(参照:小糸LP「求められている通りでないと…そこに居ちゃいけないような気がして」)と認識している。認識の原因は小糸の性格と周囲との関係性に求められるだろう。小糸LPでは、周囲に求められる存在であり続けなければいけないという認識はいい子にしていることで家族に喜んでもらいたい、という思いが次第に転化していったものであることが語られる。また、小糸は「内弁慶」で「真面目な努力家」であることが『シャニマス』公式HPに記載されている。この記載や、小糸のコミュ全体から、小糸は要領がよく、すぐに吸収するいわゆる天才型の人間ではなく、努力して力をつけていくいわゆる秀才型の人間であることが読み取れる。一方ノクチルの他のメンバーはなんでもそつなくこなす天才型の人間が多いことが『シャニマス』のコミュの各所から読み取れる。ここから、小糸はノクチルの他のメンバーに追いつかないといけない、という認識を持っていることが窺える。また、小糸はその性格から人と関わるのが苦手かつ友達を作るのが苦手であり、ノクチルのメンバーと異なった中高一貫校に進学した中学時代には雰囲気に馴染めず、学校に行けなくなり3年で卒業している過去をもつ(参照:小糸P.SSR【セピア色の孤独】)ことから、ノクチルに対しての強い帰属と追随の方向性を有していると考えられる。一方で、小糸はアイドルとしての活動を行う中で、その目的を見つけることが課題として常に提示され(小糸WING )、これについて思い悩み(小糸GRAD (WING編で見出した、たくさんの人にノクチルのライブを自らの居場所だと思ってほしいという目標について)「全然、地に足がついていない…ゆ、夢みたいな話だったんだって思って」)、また目的が見つからない中でアイドルとして進んでいくことについても思い悩む。そして小糸LPでは、妹と母親、Pとの交流の中で、小糸はアイドルとしての活動によって、周囲の人々(LPで想定されているのは家族だと思われる)や今いるファンの歓声を聞きたいという目標を定立する。この目標は前述した、周囲の人を喜ばせる、もしくは褒めてもらうことによって周囲に求められる存在であり続けなければいけないという強迫観念を取り除くものとして、すなわち自らのための目標として機能する。小糸は現況として、アイドルとしての活動を通じ、周囲をよろこばせることによりしがらみからの脱却を図る方向性を有していると考えられる。
◉現存在ノクチル
これまで、ノクチルの各メンバーの内包する方向性について考察した。各メンバーは、ノクチルとしての活動を通じ、より個人的な方向性を強めつつあるといえる。この方向性はどれも同一の方向を向いていない。しかしノクチルはあり続けるだろう。彼女たちはそれぞれ別の方向を志向しながらも、動機やその適応範囲は異なるにせよ、当座のノクチルの維持を望む方向性もまた内包している。しかし、彼女たちの方向性が現況のものである限りノクチルの維持もまた現況における当座のものに過ぎず、その先も本当に今の形で存在し続けるのかどうかは未だ不透明である。私は、この不透明さと方向性の捩れこそが、ノクチルの魅力を生み出していると考える/少なくとも私はこの不透明さに魅力を感じている。不透明さは物語に疾走感とライブ感を生み出し、また、実際に不透明なものであったように思われる思春期の雰囲気を想起させ、彼女たちとその世界の実在性と、私/読者の世界と彼女らの世界の連絡を担保するものとなる。永劫回帰するような文脈を消費し把握することにより生じる、安心感と支配感とは異なった快楽がここには見出されている。二度と来ない、今しかない瞬間を吟味し消費すること、これこそがノクチルの物語、そしてシャニマスの醍醐味だと私は思う。
◉後書き
お読みいただきありがとうございました。今回の論は一応物語分析という体をとってみたのですが、実際にやってみるとただの主観性の発露になってしまいなかなか難しいところがありました。一方で、分析の過程で行ったノクチル関連のコミュのプロットの制作は、条理的に物語を把握する一助になり、他の文を書くときにも有用であるように思えたのでぜひ取り入れていきたいとも思っています。もし次の機会があるとすれば、次はもう少し小さめの題を緻密に書いてみたいとも思っています。