
幻想小説 恋人達
起きるのも面倒だが、寝続けるのもつらくなり、仕方なくベッドから這い出した。カーテンの隙間から外を覗くと梅雨特有の鉛色の空から重い雨が落ち、窓ガラスに泪のような筋をつけている。冷蔵庫を開け、コンビニの袋ごと冷えている最後の発泡酒を取り出して蓋を引いた。カキンという冷たい音をつまみに空腹の胃袋へ流し込み、炭酸のちりちりした刺激を味わう。テレビをつけ、ぼんやり眺めているうちに、きょうが月曜日だと気づいたが、だからといって何かが変わるわけでもない。
派遣契約の延長が打ち切られ、つまり「派遣切り」になってどのくらいたったか。最初のうちはハローワークで求職に励んだが、派遣切りにあうということは、世の中の仕事が少なくなっているということで、まともな収入の仕事がすぐにみつかるくらいなら、派遣切りなど起きないという単純な事実に気づいたとたん、なんだかバカバカしくなった。
それ以来このワンルームマンションに引きこもり、時間を失った。喉が渇き、空腹に耐えられなくなったときだけ近くのコンビニまででかけるだけで、最近はそれさえ億劫になっていた。目が覚めると「ああ、まだ生きていたか」と半分がっかりしたような気分にさえなった。テレビではお笑い芸人が聞き取れないようなスピードで勝手に何かを話し、勝手に笑っている。 遠い世界をみるように画面を眺めていたら、ふと、彼らの笑い声の中におかしな音が混じっているような気がした。テレビの音を消して耳を澄ますと、金属をひっかく音が玄関の方からかすかに聞こえてくる。ドアの傍らに立って聞き耳を立てると、何かがドアをひっかいている。鍵をゆっくり回し、チェーンをつけたままそーっと外を窺った瞬間、足下を青灰色の物体が通り抜けた。驚いてドアを閉め、部屋を振り返ると、一匹の猫がこちらを向いて座っている。
青灰色の短い毛並みにぴんと立った耳、黄色く縁取られた黒い瞳を大きく見開き僕をじっとみつめている。僕はペットに興味がなく、犬も猫もその種類や性質についてなどさっぱりわからないが、首輪をしていることや毛並みの様子から近所の飼い猫のように思えた。どうしたものかとさっき閉めたドアを開けてみたが、猫は出ていく気配もなくじっとたたずんでいる。僕は猫を避けて壁を背に両膝を立てて座り、発泡酒の残りを飲んだ。すると、猫は膝に乗り、腹の辺りで丸くなった。柔らかく温かい生き物の感触に不思議なやすらぎをおぼえ、なでてやると、ゴロゴロという微かな音と振動が伝わってきた。 その心地よさに目を閉じると、壁の向こうから音楽が聞こえてくる。低い弦の音だ。音楽にも疎い僕はその曲名も知らなかったが、ゆっくりとしたはかなげな調べと空腹時の発泡酒と猫のぬくもりで、いつしか眠りに誘いこまれた。
どのくらい寝てしまったのか、腹の辺りの冷たさに目が覚めると猫は消え、ドアが半開きになってそこから風が流れ込んでいる。僕はドアを閉め、久しく忘れていた「幸福」という文字を思い浮かべながらベッドに潜り込んだ 翌日から毎日、一日中ドアをあけておいたが猫は現れなかったし、壁の向こうからは何の音もしなかった。夢か偶然かとあきらめかけたとき、半開きのドアから青灰色の顔がのぞき、慣れた様子で僕の腹に頭をもたせかけた。壁の向こうからはあの弦の音楽が聞こえてくる。 どうやら時折、隣で弦楽器を練習する人がいて、そのときだけ猫がこちらに避難してくるらしい。郵便受けに隣の名前は入っていないし、顔を合わせたことは一度もない。曲の雰囲気から女の人ではないかと勝手に想像し、猫が帰るのを見届けようと思うのだが、いつも寝てしまう。一度ドアの鍵をかけて自由に出られないようにしたことがあったが、鳴き声に目が覚めてドアをあけたら凄い勢いで飛び出し、あっという間にいなくなってしまった。そのうえ次に逢った時、牙をむき出して威嚇されたので、2度とこの手は使わなかった。僕はインターネットで猫の生態を調べ、コンビニでミルクやキャットフードを買い求めたが、そのうちコンビニより種類が豊富な大規模スーパーで買い物をするようになった。
やがて僕は猫のえさ代を稼ぐため、いつも買い物をする大型スーパーでとりあえず働くことにした。人付き合いが苦手で今まで機械部品の組み立てしかしたことがなく、求職もその職種でしか考えたことがなかったが、スーパーでも裏方の仕事は多く、遅番や土日出勤もかまわないということが結構好条件となったし、割引で買い物もできた。
その店にはペットコーナーもあったので、猫用品も充実していた。アルバイトの中に猫好きの美紀という女子大生がいて、猫についていろいろ教えてもらえた。携帯電話で撮った猫の写真を見せ、その猫が「ロシアンブルー」という種類の雌ということも判った。
美紀は無類の猫好きながら、一人暮らしのアパートがペット厳禁のため、猫を飼えない。その無念さを晴らすかのように、僕に「複数の飼い主が1匹の猫を飼ってるってよくあることよ」とか「トイレの砂はいつもきれいにしなくちゃいけないのよ」とか熱心に指導してくれる。おかげで広くもない部屋に猫のトイレまで作らされたが、猫は一度も使ったことはない。 あるとき僕が例の弦楽器の曲を鼻歌で歌っていたら、彼女に「あら、その曲ってブラームスじゃない?」といわれた。「いや、良く聞くんだけど名前は知らないんだ。知ってたら教えてほしいんだけど」「やだ、猫飼ってても猫のことよく知らなくて。曲名わかんなくて鼻歌歌ってるなんて。面白い人」
美紀はけらけら笑いながら「それはブラームスの弦楽6重奏。ジャンヌ・モロー主演の「恋人たち」っていうフランス映画のテーマよ。私、その映画が大好きで、だから知ってるの。ねえDVDあるの。今度私の部屋に来ない?私達月曜日は休みでしょ」と誘われた。 美紀は働きながら大学の2部に通っているので、昼間しか時間がとれないという。真っ昼間に男を誘う真意を測りかね、僕は迷ったが、結局誘われるまま昼前に彼女のアパートを訪ねた。 ドアを開けた美紀は「いらっしゃい。狭いけど」と屈託なく笑い、僕を入れるとチェーンをかけた。「お腹空いたから、お昼食べてから観ようと思って。今、パスタをゆでるね」 台所からパスタを茹でているお湯とニンニクの混じった匂いが流れてきた。こんなに生活感の満ちた匂いをかぐのは久し振りだ。卓袱台にサラダを並べてから、ゆでたてのパスタを運んできた。
「恋人たち」は、中産階級の裕福な夫の下、怠惰で享楽的な生活を送る、若く美しい人妻が、貧乏学者と一夜にして恋に堕ち、駆け落ちするのだが、旅だった瞬間、人妻が絶望を予感して終わる、というストーリーだ。 DVD鑑賞後、僕と彼女も「恋人たち」となってベッドに入った。互いを追い求め、男と女が深夜の庭を彷徨い歩くシーンに流れる弦楽6重奏の力強く激しい調べは、行き場のない二人の熱情を見事に表現し、壁の向こうで奏でられるのとはまるで別の曲のようだった。隣の音には、6重奏を一人で弾くという理由だけではない、もの悲しさと寂しさが旋律に沈んでいた。
彼女のため息と柔らかな肌に埋もれながら、僕はそんなことを思った。
夕方帰ると、マンションの前にスーツ姿の男が大きな荷物を持って佇んでいる。傍らを通り過ぎようとすると猫がでてきて僕の足下にまとわりついた。男が「あなたの猫ですか」と驚いたように声をかけてきたので「いえ、あの、多分隣の人のだと。ただ毎週月曜僕の部屋にくるもんで」と、もごもご答えた。男が「アナスタシア」と呼びかけると。猫は彼の方を見て牙を剥き、激しく威嚇した。
男は僕から目を離し、地面をみつめたまま独り言のように語り始めた。「ここには僕の恋人がこの猫、アナスタシアと住んでいたのです。音大生だった彼女は、才能豊かなチェリストで僕の教え子でした。でも僕には妻がいました。妻の家は音楽界ではかなりの権威で、僕もそのおかげで音大で教員になれたようなものです。もし妻に彼女のことが知れたら2人とも音楽界では生きられない。
僕はともかく、彼女の素晴らしい才能をなんとか花開かせたかった。だから別れようとしたのです」男は足下の猫をみつめ、黒いケースに入ったチェロを置いた。「彼女はブラームスの弦楽6重奏が大好きでした。そしてあの曲は僕がここを尋ねるという学校での暗号だったのです。
1年前、僕が別れることを決め、最後に弦楽6重奏を弾いた日、彼女は愛用のチェロと一緒にここで飛び降りて亡くなりました。滅茶滅茶になったチェロのセピア色を抱きかかえるように長い黒髪がからみ、傍らにアナスタシアがうずくまっていました。夕闇の中、金色に光る目でまたたきもせずにみつめられた僕は、耐えきれずにその場を逃げ出しました。
アナスタシアは僕が来るといつもこんな風に威嚇し、部屋の外にでていってしまったのです。彼女は「妬いてるのよ」と笑っていましたが、猫には僕たちの未来がみえていたのでしょう。きょう、僕は妻と別れ、大学も辞めてきたのです」
男はしばらく目を閉じると、黙って立ち去った。置き去られたチェロが、冷たい灰色のアスファルトに長い影を投げていた。
僕がいつものように部屋の壁に背をもたれると、アナスタシアが寂しさを抱え込むように腹の辺りで丸くなった。しなやかな青灰色の毛をなで、目を閉じると、いつもの、もの悲しい旋律ではなく、2台のチェロが、互いに戯れては離れ、重なり、やがて響き合う「恋人たち」の湧き上がるような調べが流れた。
僕は微笑み、アナスタシアが「ミャア」と小さく鳴いた。明るく穏やかな秋の暮れ陽に、哀しみが滲んだ。