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脳の病気になって頭蓋骨に穴を2あけたときの話


生まれてすぐ『脳の病気』になった。

そして、お医者さんは両親にこう宣告した「この子は手術をしても死ぬ確率が高い、生き残っても重い障害が残るでしょう」と。

(そっ・・そんな!!!・)

・・・・しかし!!!!

ノリが異様に軽いウチの両親(無職×2)は
「まぁやるだけやってみますか~」と、
よくわからないけど手術を選択!!!!

(父:職ナシ・母:職ナシ・貯金ナシ)

そもそもなんだけど「手術します!!」とは言ったんだけど『両親共に無職』で、貯金も無かったので手術費用は『全額』祖父母が立て替えた。


・・・このことからもわかる通り、
ウチの両親はとにかく『軽い!!』


こうして、最悪のギャンブルが始まった。

これは後々調べてわかったことだけど、
この脳の手術で重い障害が残る確率は

『約30%』ほどらしい。

・・・ただしそれは『現代医療』の話で、
そもそもこの赤ん坊がなるような病気ではない。

さらに私はこの脳の病気を再発して2回繰り返す。
・・なのでおそらく『最悪』が起きる確率は

・・グンッ!!と上がる。
きっとゾクゾクする確率だ。

歩けなくなるか?目が見えなくなるか?
喋れなくなるか?寝たきりになるか?

(ぱっじぇろ!ぱっじぇろ!)

いや・・・・・それとも普通に死ぬか?
まさに人生、最悪のスタートだった!!!

・・・・・・・・ところが、
まるで奇跡のようなことが起きる!!

・・・・なんと私が生まれたド田舎の病院に
「天才脳外科医」と呼ばれた先生がいたのだ。

・・・とはいえ、先生はすでに高齢で第一線を退いており、私たちが暮らす田舎町の病院で半ば隠遁暮らしをしながら『医療関係者の教科書』の執筆をしていたそうだ。

(カキカキ・・・・)

・・・・そんな先生のもとに
「やばい脳の病気の赤ん坊がいます!!」
という報せが届くのだが・・・

先生は「もう・・手術はしない!!」
と言って断ったらしい。

だけど私の脳の病状があまりにも悪かったので「もう先生しかいません!!」「先生!!!先生!!!」と周囲から懇願され、先生は立ち上がり「よし!!わかった!!」と手術の陣頭指揮をとることになったのだそうだ。

こうして天才脳外科医は
再び立ち上がった!!!!

(第一話 天才脳外科医 完)


~~~~~~~~~~NHK~~~~~~~~~~~

うん・・・・・まあ実話なんだけど・・・

とにかくこうして、大手術は始まった!!!!

(わーい)

当たり前の話だけど、事態は深刻だった。
先生が思っていた以上に深刻だったらしい。

さすがに詳しくは書けないんだけど・・頭蓋骨に大穴を開けた後、さらに『体にまで大穴を開ける超大手術』になってしまったらしい。

・・どうにか手術は終わったのだが、
その後すぐに脳の容体が悪化。再発。

鬼畜の第2ラウンドが開始!!!!

(ふぁい!)


死ぬか?重い障害が残るか?という危険な手術を
なんと『2度』もすることになってしまったのだ。

まぁ・・・・おかげで私の体は穴だらけ。

(ちーず)

・・・しかし天才脳外科医は、
みごと手術を成功させた!!!!

(うおおおおおおお!!!!!)

先生は本当にちゃんと天才だった。

・・・・・・・・・・・・・・・とまぁ・・・・・・・・・・・・・・・・ここまでが後々、看護師さんたちに聞かされた話。

「先生がこの病院にいたことが奇跡だった!!!」と。

(やるじゃん)


こうして私は先生のおかげで命を拾った。

・・しかしそれは終わりではなく、
ただの「はじまり」にすぎなかった。

そもそも生き残っても『重い障害が残ること』は大前提だったので、私は脳の検査のために何度も何度も病院へ行くことになったんだけど・・・・先生のおかげで病院内での私はちょっとした『有名人』になっていた。

検査に行くと、いつも看護師さんたちに
「わーっ」と取り囲まれて、こんな風に褒められた。

「すごいね!ふつうに歩けるんだね!!!」
「すごいね!!ふつうに喋れるんだね!!!!」

(・・・なめるな)

「隠居していた天才脳外科医が、ひどい脳の病気をした赤ん坊を救うため立ち上がり、見事手術を成功させた!!」という話は逸話になり・・

もはや私は天才脳外科医が残した
『名作』扱いになっていた。

まぁ・・・・で・・・・私は小学校1年生に上がるまでの間、脳の検査を受け続けた・・数年間、先生が検査をした結果・・・


「問題ナシ」「障害ナシ」
(両親からはそう聞いている)

・・・・さらに先生は私の脳波の検査をした時にこんなことを言ったそうだ「この子は普通の人と違い脳波がピンッと真っすぐ伸びています、もしかしたら物凄い天才なのかもしれませんよハハハッ」と。

(まっすぐ)

・・・もちろんだけど、これはリップサービス。障害が残るかもしれないと不安に怯える親子への暖かい励ましの言葉に過ぎない。

そう・・・だから当然、私が小学校に上がる段階になると、先生は両親にこんな助言をしたそうだ「この子は特別学級を選んでもいい」と。

私は幼かったのでさすがに詳細は知らないんだけど、先生としても私がこの先どうなるのか?どう成長していくのか?判断が付かなかったんだと思う。

私の立ち位置は曖昧なまま。

で・・・・結局、両親は私を「普通学級」に進ませることを選び、私は「普通学級にいるバカ」として幼少期を過ごすことになった。

(えいよう)

自分が『周りの人間よりバカ』だと
気づいたのは、小学校に入学した直後。

最初の授業でのことだった。

先生がクラスの全員に折り紙を配り
「みんなでツルを折りましょう!」と言った。

(つる?)

まず、先生が折り紙を折る手順を丁寧に解説していく。手順①手順②手順③手順④手順⑤手順⑥・・・・私は手順②か③の段階でパニックになった。

あっ・・・あれ・・・あ・・・・ん????
おかしいな・・・・・あれ??ん???

(???????)

そして十数分後「できたー!」という同級生たちの明るい声が次々と教室内に響き渡る。私はその光景に唖然とした・・・・・

(きっとみんなも出来ないだろう)
と、思っていたからだ。

同級生の机の上を見ると
可愛らしいツルが一匹。

(ツルーーー)

・・・で・・・私の机の上には・・・
『現代アート』が転がっていた。

(題:虚無)


小学校1年生になったばかりの私は、目の前にあるクチャクチャになった『元折紙らしき塊』を見ながら、数ヶ月前にお医者さんに言われた話を思い出した。

「特別学級を選んでもいい」

そりゃ子供だったから詳しいことはわからなかったけど、さすがに「脳の病気の影響で自分はバカになってるんじゃないか?」ってことくらいは想像がついていた。

(見りゃわかる)


私は正常なのか?先生の言葉の真意は?

・・・しかし私がそれを知る機会は永遠に訪れなかった・・・・なぜなら小学校に上がる段階で「検査とリハビリ」をやめてしまったからだ。

つまり・・・・まぁ・・・貧乏すぎて
検査リハビリを続けていけるような
財力がウチにはなかったわけです。

ちゃんちゃん。

・・・結果、私と先生の『縁』はそこで終わった。

(うん・・実際どうだったんだろうな・・・・)
(もしウチに金があって・・・・)
(先生と検査リハビリが続けられていたら・・・)
(もうちょいマシな人生になってたのかな?)


・・・・ま・・・んで・・・・・・・・

それから普通学校に入った私は、やっぱり小学2年生位で学校の勉強についていくことができなくなってしまった!!!!!

テストを白紙で持って帰るたび、母はこう言って嘆いていた「先生はあんたのことを天才だって言ってたのにぃ!!!!」ってね。

(すまん、本当にバカなんだ!!!)

「ああ死ぬ死ぬ!!!!ヤバイヤバイ!!!重い障害残るよ!!」って散々言われてた私だけど、別に今もピンピンしてるし、めちゃくちゃ元気でやってるよ。(今朝もコーンフレーク三杯たべたし)

・・・まぁ確かにいろいろ大変なこともあったけど、あの時、私が死にかけていた時、私のために奔走してくれた大人たちがいたってことは今でもちゃーんと覚えているし・・・・・・・

べつに大したことはできないんだけど、
出来るだけ長く生きようとは思ってる。

そんだけ。

おわり


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