ブラジルの備忘録 9
備忘録9
ブラジルは日本の国土の22.5倍、人口は2倍。そんなに広い国でも、国の至る所でエリス・レジーナのCDは売られている。
1945年3月17日、ポルトアレグリ生まれ。そんな彼女のデビュー当時を知る女性ギタリスト、Norminha Duval (Norma Gonçalves Cadaval) ノルミーニャ・ドゥヴァウ(本名はノルマ・ゴンサウヴェス・カダヴァウ)。私は人寄せパンダ宜しく、テレビのインタビューが功を奏して色々なライブハウスで歌い始めていた。それでもいつも違うメンバーで歌うことへのストレスと、ギター習いたい、フルートを習いたい、という強い希望を持っていて、それぞれの分野の先生を探していた。そんな中、私のポルトガル語の家庭教師であり、弁護士でもある人が、
「エリスと一緒にプレイしていたギタリストが演奏してるバーがある、行ってみたら」
と紹介してくれた。バーの名前はバール・シコだったように記憶している。私が店に入ると、彼女は一人で歌いながらギター弾いていた。私は夜、ライブハウスに歌いに行くために、ベネディクト会の学生寮を出て、ポルトガル語の先生の友人宅を間借りしていた。その人が色々なところに同行してくれた。
幸い彼女は英語学校の先生で、英語がよく喋れた。当時、色々なオファーがあったにもかかわらず、個人電話もなく、メールのやりとりもさほど簡便でなかった事から、彼女の名義で携帯を買ってもらうことになった。家の留守録が、私の友人や、問い合わせで埋まってしまったことに、彼女は結構参っていた。彼女は言葉が上手く話せない私を、警察の外人登録に連れて行ってくれたり、なんやかんやと、私の世話をしてくれた。彼女はまだ若く、美しい人だったので、彼氏ができないのがいたく不思議だった。私は申し訳ないように思うと同時に、彼女がいて助かっていた。外国人が海外で生きるとは、そういうことだ。ある種、右も左もわからない子どものように、誰かの助けがなければどこにも行けない。特に、ブラジルのように、どこの都市でも外務省の危険地域に指定されているような国ではなおさらだ。
私がポルトアレグリに着いたばかりの頃の物価は非常に安く、バス代も1レアウ、労働者が立ち寄るような街のレストランでステーキ、ライス、ポテトフライのセットメニューを頼んでも、3へアイスくらいで食べれる時代だった。当時は1へアイスが大体60円くらいだっただろうか。現在は28.07円くらい。因みに当時はお米1キロが2へアイスもしないような時代だった。現在の運賃は4へアイスであろうか。日本の交通運賃があまり上下しないのとは対照的だ。
あの頃のブラジルは今のようにLei seca(レイセッカといわれる酒気帯び運転を取り締まる規制)がなく、厳しく取り締まられていなかったので、10時から始まるギグを見に行って、一杯どころか、結構飲んで車で帰るような人たちも多くいた。ご存知かどうか知らないが、ブラジル社会は、死亡事由に交通事故も多く、後年取り締まりが強化され、現在に至る。車で移動するのは、犯罪が多いブラジルでは、歩いている時に強盗に遭うケースが多く、特に夜間、外出する場合、タクシーもしくは自家用車で行く方が安全だからだ。音楽を聴いて、飲んで帰っても、警察のご厄介になるようなことはなかったから、ライブ演奏を入れているバーやレストランも多かった。
それには理由がある。著作権協会が、レストラン等で音楽をかけている場合、協会に支払いをするよう査察をして回っていたからだ。例を言うと、例えば日本の領事館で「君が代」のテープ流したりすると、それだけで徴収の対象になり、2万円くらいの請求が発生するというご当地事情があった。
どうせ協会にお金を払うなら生バンドを雇って盛り上げた方がいいということなのだろう。生演奏の店がたくさんあった。そのくせ、お酒が入ると、ブラジル人は大声になり、雄弁になり、時には話に力が入って喧嘩になり、やはり警察のご厄介になり。そんな当時のバーで、彼女は演奏していた。
ノルミーニャ(ノルマ)・ドゥヴァウは65歳くらいだっただろうか。白髪混じりで、ギターを肩から掛け、夜中の2時まで演奏していた。ギターの音は繊細で活気があり、むかしバーデンに褒められたテクニックは、スペインに留学した賜物だった。この人が、まだ19歳のエリスの伴奏をしていた名ギタリストだった。