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ブラジルの備忘録 20
備忘録20
彼女の苗字はキムだったと思う。長い髪、透き通るような白い肌で、綺麗な韓国女性だった。彼女はとても真面目な学生で、授業も宿題も優等生であり、助力が必要な友人をいつも助けるような人道もあった。ただ、非常に気の強い人であり、それには私もかなり閉口した。例えばある日、入居して来た彼女の引越し祝いをうちでやる事になった。狭いうちなので、私と、キム、そしてもう一人の日本人学生の3人で会をやる事になった。料理は全部彼女が作った。彼女は無類の料理上手で、彼女が作るものはなんでも美味しかった。釜山の人で、釜山では韓国の恵方巻きのような寿司を食べるようで、それを作ってくれた。その他チヂミ、焼肉、何から何まで3人しかいないのに、すごい量を作る。おまけに、台所用品の設置場所など、彼女ベースで配置が変わっていたり、大音量で当時流行っていた”Cidade Negra”をかけていた。何しろ壁が薄いブラジルのアパートの事、私は隣人から苦情が来るかどうか心配だった。
ある程度話した後、何故か韓国と日本の違いという文化的な話題になった。彼女は猛烈に日本を批判する。「日本人は、朝鮮の王妃を殺害した」。流暢な日本語であったなら、それほど耳障りではないだろう。ところが、これが、片言のポルトガル語だと、日本人の私は居た堪れない気持ちになる。母国語で話しているわけでないから、表現が直接的だ。「日本人は最低だ」、「私たちの王妃を殺した」。私も、満州事変については知っているが、韓国の歴史の授業では、戦禍に於ける悲劇というより、「非人道的日本民族の話」とされ、それ以上の事として伝えられている節があり、戦争の背景はすっかり削ぎ取られている。果ては豊臣秀吉の朝鮮出兵にも話しは及び、いかに日本国民が非道の限りを尽くし、韓国を陵辱してきたかを切々と訴える。私は何度も何度も彼女に謝った。韓国が日本に与えてくれた影響の栄光も称え、言葉の限りを尽くして、怒りを鎮めようとしても、ダメなのである。その日、彼女が眠るまで、日本人非難は続いた。ここで不思議なのであるが、じゃあ、何故私と住むことを決めたのだろう。
この非難は何故か学校の授業でも続き、事あるごとに彼女は日本を公然と非難した。彼女が口火を切ると、他の韓国人学生も同様に意見した。私は居たたまれなくなり、
「皆さんに、国民を代表して謝ります。当時の事情は、現代を生きる日本人の私には分かりかねる部分も多いのですが、確かにこのように韓国の方々の心を傷つけてしまった日本の国政には問題があったと言わざる追えない。本当に申し訳ありませんでした」。
するとポルトガル語の先生は、
「でもそれは戦争下で起きた事です。戦争とは、平常を逸脱するところで起きる。ナチスもユダヤ人狩りをしていたのは、世界の知るところです。あなた一人が謝る事ではないと思います。」
自分のアパートで、さんざん日本人の国民性を罵られ、心が鈍感になってしまっていた。拷問にあったパレスチナ人の牧師曰く、あまりに暴力を振るわれると、気を失って、何も感じなくなってしまうらしい。私も先生にそう言われるまで、頭を低くして謝ることしか思い浮かばなかった。それは時代だったのである。力あるものは全て自分の思い通りにしようとする。その時彼は自分の幸せのありかも、他人の幸せのありかも感知しない。時代はそのようにして移っていくのだろうか。そんな彼女がバスの車掌に恋をした。